定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第四十七回〉
二〇二四年五月二〇日
今日はアルバイトなので7時半起床。早い。
実は月給は週払いだったことを知る。清掃系のバイトをしているのだが、ペアで掃除しているおばちゃんが突然、今まで初めて聞いた指示を出してきた
。初めて聞いたし、その掃除業務で使う道具がどこにあるかもしらなかったのに、「教えてもらうじゃなくて自分で仕事探さないと!わかってるもんだと思ってたわ!もう!」とキレてきたので口論に発展。
私「初めて聞きましたよ!てかなんで突然そんなことを言うんですか?何で今まで言わなかったんですか??」
おば「やらなきゃいけないじゃない!毎週!私もこの排水口毎週掃除してるよ!」
私「(当たり前だろ。だいたい私は20分強くらいかかってあなたは10分少しで終わるくせになんや)仕事探せですか?もう十分やること多いし、探すなんてしないでしょ!てかこれ今まで忘れてたことなのに、毎週やるんですか?」
おば「忘れることだってあるでしょ!」
両者絶対謝らず。私は離れた場所でスリッパを床に叩きつけてイライラを抑えた。おばちゃんは30分後には普通に喋りかけてきた。人間礼賛である。いちいちキレるなバカ〜〜!!
《鳥瞰図》のページは全部で4頁。今は3頁目。終わりがみえてきた。
そういえば作業少し手伝ってくれていた東京君から連絡がない。もう何処かに行ったんだろう。初めから終わりまで一人で孤独にやると覚悟していたことなので、私はこのまま作業を続け、東京は東京の生活にもどる。もちろん手伝ってくれた分の手続きは誠実に行うつもり。
はじめに軽やかな腹のくくり方をしていると、割と何があっても揺らがない。逆に、事あるごとに力んで覚悟を括り続けていたら苛立っていたと思う。
二〇二四年五月二二日
今日は休み。昨日はバイトがかなりしんどかったので、映画をみて寝た。
今日は朝早く起きて、早朝映画に行った。帰りに豆もやしを150円ほどで購入した。会計後、スーパーの入口に50円の豆もやしを見つけて半日落ち込んだ。
明日も早朝映画に行かなくてはいけない。貧乏だが映画館に行くことしか楽しみがないので、早朝料金を狙っているのだ。
《鳥瞰図》3頁目が終わった。作業手順だけをみると簡単だが、目が疲れて、集中力も必要なので一日1頁進んだら万々歳。
二〇二四年五月二三日
最近考えていることがある。デジタルアーカイブとこの全集はどう付き合うか?ということだ。
紙での出版は絶対条件。しかし、自費出版になるだろうし、私がどれだけ後方に苦心しても何百冊と売れることはなさそうだ。
仮に、購入希望者が全員金銭的余裕があるわけではない。高校生で「李箱の原文テキストを読んでみたい」、大学生で「李箱のテキストを研究したい」と思う人もいるかもしれない。全員に紙で買って欲しいのが本心だが、紙での出版は多分1000円では無理だと思う。
なので、デジタルデータでの配布を考えている。
好き勝手ダウンロードできるようにしてもいいのだが、”容易に”拡大・縮小ができてしまうのはデジタルデータの悪癖なので、その旨を伝えた上で「デジタル上で簡単な申請をすればメールで送信可能」という方式にしようかと思う。紙によって繋ぎ止められていた書物と読者と編者の身体性を、「デジタル公開」という公共性によって失われるくらいなら、申請一つ一つに返信する形でテキストデータを送りたい。せめてもの抵抗として。
読者がテキストデータを所有することの可能性はもうひとつある。
それは、読者自ら印刷し、書籍を編集できるということだ。
私が出版する全集はもちろん、目次があり、意図的な順序がある。それはある種の規則をもって選ぶつもりだ。しかしそれが唯一の正解ではない。読者が印刷物を手元に用意して、批判したって良いし、読者各自のルールで
そうすれば読者だけの書物になる。テキストの順番をカスタマイズできて楽しいよね、という話ではない。書物の歴史と人間の関わりがよく見えるのではないかと思うからだ。
書物は、木材、皮、紙などの媒体をさまざまにもち、印字方法も手書き、手彫り、写し、活版印刷などさまざまである。もちろん、誤読や誤植、損傷と復元という予期せぬ外部的編集が知らぬ間に加わったことも今日の書物の歴史の重要な出来事だった。現在はデジタルデータでテキストをやり取りし、印刷する機会がほとんどで、「原本を写本するときに誤読して写本してしまいました」、「植字する際に誤植してしまいました、文字列が大きく歪みました」なんて予期せぬミスも近代までと比較して相当減ったことだろう。そういった外部的なミスがないという意味では完璧な書物も存在するかもしれない。
だが、読者は書物に傷を入れることができる。本を破いたり、切り貼りすれば、書物はいとも簡単に完璧ではなくなる。書物は書物として完成された後でも、編集可能なのだ。何の話だ?と疑問に思うかもしれない。
数百年後、国立国会図書館の貴重書書庫の書籍が遺るか、中学生が遊び半分で切り貼りした書物が遺るか、断定はできないのだ。もし後者が遺って、その当時の古書になれば、そのツギハギだらけの書物が書物の歴史になる。書物も作品もテキストも結局、編集可能性があるのが面白いと思う。書物の形態がさまざまだと後世の人間は困るかもしれないが、ひとまず私は、この妄想みたいだがあり得る書物の可能性を読者が味わうことができれば、書物の在り方の模索は実践的に進むのではないか、さらには書物と人間の関わりを経験し得るのではないかと妄想しているのだ。あと自分で本を作りたくなる人が増えたらいい。
そして単純に、「このテキストだけを研究したい。全部収録されている書籍版を買うと生活が厳しい」という学生には都合が良い方法ではないかと考えた。
私の意図通りに全てが動くとは思っていない。しかしいくつかの方向に向かって可能性が分岐する可能性をつくっておくと、研究者や図書館が動かなくたって、読者が、つまり人間が書物をなんとか面白い方向に導いてくれたりしないかな〜とちょっと期待しているだけなのだ。お金はほしいし、必要。でも最優先事項に置かずとも作業を続けられるのは、このためでもある。
二〇二四年五月二四日
私は月収10万あるかないかの貧乏人だ。しかし万年筆やつけペン、ボールペンなどをはじめとするペン類が好きで、ごくたまにペンを見つめていると突然に五千円から一万円ほど支払ってしまうことがある。
高校生の時から、好きな言葉や、気に入った言葉、よくわからなかった言葉、記憶しておきたい言葉など書き溜めており(「ノート」と呼んでいる)、暇つぶしにそれをよく読み返したりもする。万年筆やボールペンで書かれている頁は、何となく自分の字体をもっている。しかし最近ハマっているつけペンは、これらに比べてペン先が柔く、不安定さがある。まあそれが面白味でもある。
四月某日、韓国の江南教保文庫書店内に位置する「文寶藏」にて。勢い余って日本円で7000円くらいするつけペンを買った。日本で買えば5000円以内だったらしいが、なにせ勢いが余ってしまったので値段もよく調べずに買ってしまった。月収10万あるかないかの貧乏人である私。つまりバカショッピングをしたのだ。店で試し書きした時はめっちゃ良い感じや!と思ったのに、家で書いてみると不安定さがもう尋常でない。冷や汗が止まらなかった。開封して使用までしたので返品できるわけない有り様。これまでは、つけペンは画材屋さんの漫画用、筆記用ペン先を使っていたが、味わったことのない書きご心地。とにかく(書きにくい)と思わないように必死で言葉を探して、愛そうと努力してみた。
バカショッピングらしく、その7000円つけペンの情報を何も覚えていないのだが、使わずじまいは悔しいので訓練するべく「ノート」に使っていた。愛するんだ、愛するんだと心で復唱。でもやっぱり書きにく、ぃというか、紙自体安物なので仕方ないが、インクが滲むし、紙に引っかかる。そしてペン先が柔らかすぎる。私は筆圧が強いので、硬いペン先が好きなんだよな。でも悔しいから書いては書いてを繰り返して今日。私は自分の字体を放棄することになる。
力を入れて書きたいのにペン先がしなりすぎるから、あえて力を入れないように握ってみた。はじめは手先の力加減だけを意識していたが、次第に、意識するのではなく、ペン先のしなり、引っかかり、インクの量を眼でみて、指先でみて、手周辺にかかる力が反射的に適応されていった。すると字体は次のように変わった。
私はこんな字、書いたことない。書こうと思ったこともないし、むしろ、このようなかたちの字は「汚い字だな」と思うような部類だったはず。それが今やどうだ。何やら文字一字一字が孤立しながらも一つのあるリズムを築き、私が眼にすると止まり、読み終えるや否や再び蠢きはじめるような生物群にみえた。これは字なのか?私は、このペンと一つの生態系を生み出したような錯覚に陥った。深い森を抜けてペンを置くと、想像も及ばないほど複雑な自然が生まれていた。生まれた初めて「字を書けた」気がした。
そこから物語は分岐した。LAMY balloon 2.0 ローラーボールだ。これは梅田の伊東屋だったか何処かの文具店で一目惚れした。ただ紙質との相性が難しく、使いどころに迷うお気に入りの子だ。現在このデザインは廃盤になっていて、「LAMY balloon 2.0 ローラーボール」と表記された名札の中でその子だけが異質だった。その当時は、LAMYの万年筆を狙っていて来店したのだが、その子のあまりの存在感に夢中になってしまった。試し書きしては、ディスプレイに戻しを繰り返し、遠くから眺めたりもしてみた。帰っちゃおうかな?という動きを、その子にみせても凛とした表情をしている代わりに、私がそんな戯れをさせられているような気分だった。そうこうしながら30分ほどLAMY balloon の前をうろうろして、ようやく店員さんを呼んだ。他の客もこの子をベタベタ触っていると思うと新品が欲しくなり、在庫量を尋ねた。「ない」と即答。結局その日は、LAMY JAPAN 本社に在庫確認してもらうことになり、店内にディスプレイされていたこの子は取り置きしてもらうことに。
帰り道、本社にあるかどうかはどうでもよくなっていた。多分、私にはもうあの子しかいない。あの子が私を呼び止めて30分も足止めを食らったのだ。なんて魔性的魅力。本社確認なんかしたふりでいい。早くまたお目にかかりたい。私を選んで欲しい。熱い愛を感じながら電車に揺られた。これが恋!一目惚れ!!
数日後、本社にもないと連絡が来た。
一目惚れしたこの子はやはり、日本国内で最後の女神だった。
待ちわびた受け取り日。至って冷静な客を装い来店。もう、早く触りたい。今まで触られてしまった手垢を綺麗に拭き取り、その果てしない手垢の重なりを遥かに凌駕するほど触れたい。一刻も早く女神の姿を拝んで、圧倒されたい。今ここで倒れてしまってもいい覚悟がある。呼吸が荒い。副作用的に店員さんや他の客、ショーケースをぶん殴ってしまわないか心配でわなわな震えていた。
頑張って”冷静”をやり切り、購入手続き終了。店を飛び出して即刻開封。うわあ、という音しか出ない。言葉が見当たらない。覗くと視界向こうを眩いオレンジに染めるボディ。中に見える白い軸が穢れない生まれたての内臓みたい。私に何一つ隠さず全てをみせてくれるような態度とでも言おうか。クリップの白も完全に調和されている。キャップの丸みとクリップの丸みの具合はちょうど同じくらいだろうか。その存在全体を二重になぞって浮かび上がらせている。世界とこの子自身を自ら隔てて主張するような逞しさもある。キャップの下に見える黒いラインはLAMYの特徴だが、加えてもう一つ、インクの色を示すためワンポイントの青色が、オレンジの体内に内蔵されることで二本目の黒線を浮かべている。
なんて美しい。よくぞここまで、誰にも振り向くことなく私のところに来てくれたものだ。有難う。有難うという漢字の妥当性にまで悶えるほど有難うと言いたい。私の血管をこの色にカスタマイズしたい。この色が私の体内の色であって欲しい。だからこそあの時、離れがたく結びついてしまったのだと思いたい。いやいやきっとそうだ。この子で文字を書くとき、私の文章はどういうかたちをしているのか。どんな風に書かされるのか。そうだ遺書も、遺書もこれで書きたい。もう帰ったら遺書書いちゃおうかな。私の血液を吸い上げてインクにしたら一つになれると考えたが、合わせて買った青のインクの発色には勝てない気がして考えを引っ込めた。こうして私が考えたすべてはこの子の体のように透けて、バレているのではないか。いや良い。むしろそれで良い。
その後遊んだ友達にペンを見せびらかしてこの輝かしい出会いについて咆哮した。「手で持つだけじゃなくて、なんかさ、舌で舐めてこの子を感じたいと思うくらい美しかったんよな。書き心地も満点やけど、デザインがもう、脳裏に瞼に手に焼きついて離れなくて、呼吸荒くなった、これが一目惚れじゃないなら何も一目惚れじゃないよ。特別に試し書きさせてあげる」。友達は引きながら「よかったね」と笑いかけてくれた。阪急梅田の人混みのなか試し書きをさせた。良い友達だ。
そして今日へ。
これまでは紙質を言い訳にして使い所を厳選していたこの子の存在を想った。今なら、新しいところに連れていってもらえるかもしれない。今、しかない気がする。
さっきの身体を思い出す。手に握る。硬くやや角張ったボディがが導く書き方に任せて書いてみた。元々、滑らかで硬めの書き心地のこの子。紙にペン先を乗せた瞬間、滑り出し始めた。私の手には全然力など入っていなくて、この子が楽しげに滑っていくのが遠くで見えた。私は必死に追いかける。こんな、こんな表情見たことない!こんなに可愛らしく、可憐に動き回るんだね!可愛らしい!なんて可愛らしいんだ!でもこの子の軌跡には私の性格や元の字体も内包しているような気がした。なんて優しい子なんだ。今まで、紙との相性のせいにしてごめん。本当にごめん。もっと君のことを信じて、紙なんか関係なく、君とのダンスを楽しめばよかった。そうすれば君はどこまでも私の先を滑って、手招いてくれたのに。自分が、字を書く主体だと思っていた。
自分は!!!!!!!なんて大馬鹿者なんだ!!!!!!!
傲慢で!!!!!汚れた人間だ!!!!!!!!くだらん!!!
たぶん、女神は私と踊れる瞬間まで何処にも行かずに待ってくれていたのだ。今日、つけペンにより字体を放棄させられたことで気がついた。ありがとう。字を書くことも、全集編纂も、自我をどこまで捨てられるかが肝心なのだ。自分の力では何もできない、それらに踊らされるしかないほど力を抜いて、身を任せてみるのだ。そうすると、それに見合った身体になっていく。
《鳥瞰図》のテキストデータ作成が終わった。次は、原本テキストデータと比較して、掠れや印刷状態に大きな差異がないかを確認・修正していく。
二〇二四年、五月、二五日、更新