見出し画像

小森はるか『二重のまち/交代地のうたを編む』をみた

二〇二四年六月二九日

 2011年3月11日、午後2時46分。当時小学5年生だった私は、卒業式の準備をしていた。椅子を並べたり、カーペットを敷いたり、掃除をしたりと、卒業していく6年生ために5年生が準備を行うのが私が通っていた小学校の習わしだった。小学校所在地は京都。揺れた瞬間、大多数の人が気づいたが、広い体育館をウロウロしていた人の中には揺れにまったく気づかない人もいた。
 私は体育館のステージから30メートルくらい離れたところにいて、ステージの両脇にある花瓶が揺れているのを眺めていた。(めっちゃ揺れてるな、震源は大阪とか兵庫かな)と思っているうちに揺れはおさった。「え、地震やったよな今の」「けっこう揺れた気がしたんやけど…」など不安そうな会話も聞こえたが、5分も経てば何事もなかったかのように準備は進められた。
 教室に帰って下校準備。いつも通りの帰りの会。先生がやや神妙な面持ちで「東北の方で大きな地震がありました。みんなも気をつけて帰るようにね」と言われ、下校。帰り道では何に気を付けるでもなく普通に帰宅した。2時間ほど前に視線の先で揺れた花瓶のことも忘れていたような気がする。 
 私は相当なテレビっ子だった。母親がテレビドラマを片っ端からみている人間だったので、きっとその影響だ。なので、帰宅すると手も洗わずうがいもせず、真っ先にテレビを点ける。あの日もそうだった。夕方に再放送されるドラマを観るのが楽しみだった。しかし待てど暮らせど、再放送が流れることはなく、家や車、船、電線などが混じった茶色い波ばかりが映っていた。その光景をしばらくぼーっと見ていた。テレビの中では、人の叫び声や車のクラクション、何かのサイレン音が流れ、その上に一際大きな声でアナウンサーが何かを喋っていた。でも私が佇んでいる部屋は静かだった。私は突っ立ったままで、この部屋には波もこなければ、人の声もしない。明日、卒業式があるのかぁと思いながらテレビの画面を観ていた。
 翌日になると死者数、行方不明者数がテレビ画面右上のテロップに表示されるようになった。こんなに多くの人が亡くなったんだ、と思っていた。次の日も、その次の日も、数字は増えていった。しかし京都では普通に生活が続く。テレビの中では、たくさんの家々が茶色い水に浮いていた。震災で生じた被害の映像を嫌と言うほどみた。けれど今思えば、その時の私は「何も思えていなかった」と思う。なんだか、それがとても冷酷な人間のように思えて、そんな自分になってしまうのが嫌で、増えていく数字を見つめながら、その「1」に在った誰かの生活と明日を想像しようと頑張った。頑張らないと想像できないことも恥ずかしかった。こんな頑張りは自分を良き人として保つためのものでしかなく、何ら力も助けにもなり得ないこともわかっていたが、なんとなくそれを続けていたのをよく覚えている。世間では、「番組の合間に流れ続けるACジャパンのCMがうるさい、しつこい」という声がなんとなく高まった時期があったが、私は何も言わないようにした。黙ってCMを観続けた。それから日本人は「あの日」と口にすれば、この日のことだろうかと想像できてしまうほどの大きな記憶を背負った。あの日で時が止まった場所や人、生活がある中で私は中学生、高校生、大学生になり、今、韓国にいる。

 2024年6月30日。ソウルアートシネマにて小森はるか特集を観た。小森はるか作品は大学生の時に知ったが、お金がなく、タイミングも合わず、かといってDVDを買う金と勇気もなく、まだ未鑑賞のままだった。なので、ソウルアートシネマで小森はるか特集を開催すると聞いて、すぐにスケジュールと金勘定をした。今日は17:00〜『二重のまち/交代地のうたを編む』、19:00〜『ラジオ下神白 あのとき あのまちの音楽から いまここへ』。
 私の生まれ育った場所は昔、赤線地帯だった。いわゆる遊郭建築と呼ばれる建物がいくつかあったのだが、老朽化による取り壊しや中国人の買い占めによってその在り方は私が小学生の頃と比べても大きく変化した。それに現在、「鬼滅の刃」ブームやレトロブームにあてられて、多くの観光客が訪れるようになった。しかし高齢化が進み、建築物の老朽化も進み、取り壊された建物や出ていった人も少なくない。今や、町に遊郭のことを語れる人はほとんど一人くらいになってしまった。彼女は確か、幼年時代に遊郭を経営している家に住んでいた過去があり、そこで働いていた人間ではない。私が小さい頃から知っている人だ。
 そんななか、需要に応えるように案内ツアーが何度か企画・実行されている。彼女の話を聞き、この町の住人ではないが(自称)遊郭オタクのような人の二人構成で、見学してまわるのがツアー内容らしい。ちなみに私は、何だか料金が高いし、胡散臭いなと思って参加したことはない。私はどうも、こうした見学ツアーの嫌な部分ばかり嗅ぎ取ってしまっていけないが、参加経験なしの立場から見ると、何かを語り伝えるというよりは「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」感の強いツアーだと感じる。観客はこの遊郭建築と呼ばれる建物の中で、誰の、どのような尊厳が、どういった形で奪われてきたかという歴史を真剣に勉強するというよりは、ほんの軽い気持ちで来る人も多いだろう。彼女は彼女なりの使命感や責任を感じる部分があって、町に訪れる人に向けて語っているのだとおもう。
 どうしようもない態度の違い、なのだろうか。
 
 作業日誌で何度も書いてきたように、私は「テキストの編集可能性」に関心がある。書物が普及する方法として写本が主だった時代から、今日のような印刷時代にかけて、たとえ個人特有の文体があったとて「いつ・誰が・どこで・何を・どのように」書いたかは常に不確実だった。第三者に編集される可能性があり、肉筆でさえもそれは疑えてしまう。原本と定義づけるのは大変な苦労だが、原本といわれる書物は存在していて、明らかに原本ではないのに、さまざまな書物を校訂しながら今日における原本を再現させるような「定本」もつくられている。たった一つのテキストをより正確に伝えたい気持ちはどの時代にも変わらずあったはずだ。それなのに作業者の方針や、技術の進化、保存状態、災害などさまざまな要因によって、”ある一つのテキストは一つではあり得ない”ということが、書物を取り巻く環境が複雑化することにより浮き彫りになってしまった。そしてその無茶苦茶な世界が面白くてたまらない私はいつも考えていた。
 当事者ではない人間が何を語ることができるのか、と。
 『二重のまち/交代地のうたを編む』のあらすじについてはHPより引用しよう。


2018年、4人の旅人が陸前高田を訪れる。まだ若いかれらは、“あの日”の出来事から、空間的にも時間的にも、遠く離れた場所からやって来た。大津波にさらわれたかつてのまちのことも、嵩上げ工事の後につくられたあたらしいまちのことも知らない。旅人たちは、土地の風景のなかに身を置き、人びとの声に耳を傾け、対話を重ね、物語『二重のまち』を朗読する。他者の語りを聞き、伝え、語り直すという行為の丁寧な反復の先に、奇跡のような瞬間が立ち現れる。

https://www.kotaichi.com/

 

 

語り直すということ

 陸前高田にて、小森+瀬尾のワークショップに参加した4人。彼/彼女らはそれぞれに被災した家族や男性、親子などを訪ねて、震災当時の話をきく。そして、聞いた話をカメラに向かって自分の言葉でまた語り直す。聞き、伝え、語り直す。そしてその間に瀬尾によるテキスト『二重のまち』を朗読する。大まかに言えばこのような構成で映像は流れていく。
 映像に映る4人とも皆、震災当時だけの話ではなく、雑談や一緒に食べているご飯の話もしていた。人々の話に耳を傾け、頷き、時に何か感じたことをぽつりと言ってみる。だが語るときには、とにかく皆辿々しい。少し仕草を真似たりしながら、話者と同じ口調で話してみるも、言葉がすらすらと出てこない。決して思い出せないわけではないようだ。ただ、他者の経験を語る言葉が見つからない。自分の身体にまだプログラムされていない言葉を、陸前高田の土地や人から探し出そうとしているような、吃り。本人らの表情は終始眉毛が下がっていて、必死で、不安そうで、不甲斐なさそうだった。
皆、口を揃えて「その気持ちをすべて理解することはできない」「聞いた話をそのまま、すべて伝えることはできない」と繰り返した。それでもまたなんとか語ろうとする。

 「他者の経験の全てを語ることはもちろんできない。ならば語り直しをすることで何が起こるのか」と考えながら観ていた。私が着目したのは、ある男性の語り口調だ。名前がわからないけれど、髭が生えていた青年。
 彼は消防団の集まりに参加させてもらったらしい。その消防団では毎年、ホルモンを焼いて飲んだりしゃべったりする習慣があり、震災後しばらく中止していたそれにその青年は運良く参加させてもらえることになったという。色々変わってしまったけれど、飲んで騒いで。そんな中、とある男性が集まりにやってきた。彼は震災後ほとんど口を開くことがなくなっていたらしいのだが、その青年がそこにいる理由を知ってか「俺は今日はなんでも喋るぞ!」という旨の言葉を発したらしい。
 青年はこの一連の話を、「その男性はほとんど口を聞かなかったらしいんですよ」というような語り口調ではなく、「その男性はほとんど口を聞かなかったんですよ」と、まるで自分がその数年間をその目でみてきたかのように語っていた。私はこの瞬間が面白く、かつ不思議な力があるように感じられた。

 一人称が曖昧で、かつ経験した者の身体と発話人の不一致が起こるこのやりとりは、”いつか誰か”の記憶という曖昧さに身を置いている。

 そしてその曖昧さは「誰だったか」だけでなく、果たして本当に「その記憶は存在し、何者かによってそのような口ぶりで語られたのか?」と、語り直しの不安定さを一層呼び起こすものとなる。
 だがある段階で、当事者が語ったときの正確さを問う必要性もよくわからなくなっていった。それは4人それぞれが自分の耳で聞いた話を話すとき、話の温度感を伝えようとして、口ぶりや身振り手振りを真似していた瞬間があった。また、「〇〇さんから聞いたんですけど」と伝聞する文法で語り始めたと思いきや、数分後には「その人はもともと全然喋らない人だったんですよ」とまるで自分が”その人の過去”をずっとみてきたかのように話しているのだ。

 誰かの経験を語る過程において、演じたり、その記憶にもう一度飛び込んでその記憶の中から話すようにしていた彼は、できるだけ他者に寄り添おうと努めていた。誰かの記憶を丁寧に扱おうとすればするほど、自分の身を捧げるということはやはり避けられない。しかしその姿は話者本人には決してなり得ない。青年の姿はそれをあらわすと同時に、”語り直し”とは、決して経験したり完全に共感はできない誰かの記憶を、語り直す者によってまったく違うかたちで伝聞されることを許した、原-語り手の覚悟そのものだと思えた。いや、陸前高田の人々は「覚悟」なんて思っていないかもしれない。とにかく、あの日のことを語り継いでほしいと切に願っている。
 だが、私からすれば覚悟と呼ばずしてなんと呼ぶのかという思いである。身悶えしても逃げることのできない現実が、目の前の若者によって、また遠くの誰かに伝えられようとしている。当然、経験した通りには伝えられない。変わっていく記憶、伝聞すればするほど軽くなるであろう言葉の重み、その末すべて忘れられる可能性、これらがあると理解しながらあの日の記憶に言葉を授けていく作業はどれだけ勇気のいることだろう。 どうしてこの人たちは、こんなにも優しく生きられるのだろう。私はスクリーンを観ながら考えた。

 ところで”語り直し”にどのような力があるのだろう。
多分それは、先述したように「だんだん曖昧さが増してていくところ」にある。当事者と観客のあいだに、カメラと語り直す者がいる。カメラは、映像内に「当事者/非当事者」という存在をよりきめ細かく捉える。語り直す者は、当事者から聞いた話を自分の言葉でまた話す。その際、当事者の人物像や「当事者/非当事者」という境界、記憶の正確性などあらゆる箇所において「曖昧さ」が浮き彫りになる。しかしその曖昧さが、どうにかして確固たる記憶に固定するような努力は一切ない。むしろその曖昧さを保ち、増幅させながら語り直しはつづいていく。時に、語ってくれたあの人が語る4人の身体に憑依しながら、4人固有の言葉を紡がせる。これは、いったい誰なのだろう。
 その瞬間観客は、語り直す者と似た立場に晒される。確かにあったであろう経験を語る何者かの声を、言葉を、観客が非当事者として耳を傾けるのだ。そこにカメラはなくとも、変わっていく記憶を聞いていた。変わってもいいという覚悟のもと、記憶は、聞き取ったその人の手のかたちになって観客それぞれのところへ渡る。青年の身体を借りて、原-話者の声が聞こえる。あの日、高く黒い波が町を飲み込んでいくのをみていない。それでも何か、想像できないことを想像することができそうな気がしてくる。実際には、経験していない者による想像でしかない。しかし何か、原-話者すら言葉にしていなかった何かが観客である私の耳に聞こえ、見えるような気がする。そして私はまた問いに戻ってくる。「他者のことを完全に想像することはできない、話の温度や言葉選びをそのまま伝えることもできない。でもそれで終わっていいはずがない」、そんな気がしてくる。あの4人もそう。同じようなことを言いながらも懸命に、自分の持ち得る言葉、託された言葉から語り直していた。同じ問いに戻ってしまっても、それは話を聞く前の私と同じではない。語り直す彼/彼女らの身体と言葉を見つめることで、観客はたしかに、視覚-聴覚のどちらでもない、現実だった出来事と自分自身による想像をない混ぜにした空間を経験する。つまり、完全に伝えられないからこそ観客自身で補完し、作り出した当事者意識なのだ。これが良いことなのか、反省すべきことなのか、私はまだ分かりかねている。

 この映画を観るまで「いつか、非当事者が当事者になって何かを代わりに語る時、記憶違いや編集などが加わっていき、それが引き継がれて、大きな齟齬が生まれてしまうのではないか。では非当事者に何ができるというのか」と度々考えていた。そんなことをたまに考えるのは、私の地元がそうさせているのだろう。 

 だがそもそも、陸前高田の人々はそんな「当事者/非当事者」というスケールで生きてはいなかった。あの日のことを忘れないでいてほしい。なんとか引き継がれてほしい。何か教訓になってほしい。そう思っているようだった。陸前高田の人々がなぜ、非当事者によって語り直されることを受けいれて、思い出すのも辛いような記憶を語るのか。
 わからない。わからないなりに一つ推察してみるならば、あの日の記憶というのは、個人の記憶でありながらすべての人の記憶だと考えているからではないだろうか。そこにはもちろん先祖や子孫も含まれる。
 大きな災害で多くの人の命が突然失われた。それはこれから先、どの国でもあり得ることだ。この世のどこかで起こった苦痛や喪失は、すべての人にとってのものでもある。私は記憶について考えるとき『怒りの葡萄』を思い出す。すべての人の記憶でありながら、それらすべてを感知して経験することができないからこそ、人は語り、語りを聞くのではないだろうか。語り直すこと、それはつまり国籍や性別、年齢などの区分を一時的に取り払い、ただの人と人として結びつけるための方法でもあるのだろう。言うなれば、次に来たる災害への準備でもある。

 さてこのような一時的な答えを仮置きしたとして、実際にこのような場を設けるのはなかなか難しいことだ。小森+瀬尾と4人が相当な時間と配慮を投じて作られた映像だということはみればすぐにわかる。では私にできることはなんだろう。そう思って、この文章を書いてみたのだ。
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?