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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第二十七回〉

 今日は韓国で初めて一人外食をしようと思って意気込んでいた。昼から17時過ぎまでカフェで研究を進めて、その後電車に乗って狙っていた古びた飲食店でチヂミを食べようと計画していた。カフェで注文したのは飲み物で、それは食事じゃないから一人外食にはカウントしていない。

 今日はバイトも図書館も休みなので、しっかり休めばいいのにと自分でも思うが作業を進めていた。もう、1日休みを作ることができなくなっている。ペースを落として作業するかペースアップして作業するかの毎日になっていて、さすがに自分でも怖くなる時がある。

 マップで調べながら店に向かうと、「一人で食べられる量じゃないよ」と言われ、追い返された。他の店をと思いウロウロしたが、クリスマスだったので一人客がいない。店の扉を開けて「一人だけど入れますか?」と聞くのも嫌になってきて、帰った。自宅付近のあまり賑わっていないソルロンタン屋さんにも寄ろうとしたが「ダメダメ終わり」と最悪の対応をされたので、もう絶対行かない。帰って、カップラーメンを食べた。最悪。


 楽しかったのは電車に乗ってる時間だけだった。電車乗車時間ともう一つ良いことがあった、良いことというか、良い兆しがあった。

 今まで、この定本作業の根幹的な信念として「行間や空白、改行の位置など”かたち”もテキストの一部と言える。なので、テキストに何が書かれているかに注目するだけでなく、どう書かれているかにも視野を広げ、実践すべきだ」と主張してきた。それは現在も変わりない。けれど、何かが不足しているな〜と思って、考えることを放ったらかしにしていた。何が足りてないかはなんとなくわかっていたけど、それは何かを考えることは非常に労力がいるし、何より「不足しているどころかこの作業なんの意味にもなりえないです」という結論が出たらどうしようと恐れていた。

 足りないなと思っていたのは、「テキストにとって、テキストを可能な限り再現する態度が大事だ」というのは置いといて、肝心の「読者にとって、編纂者にとって、”テキストを可能な限り再現する”とは一体どういうことだと言えるのか」という部分だ。

 今日の昼頃、ポンと。夕方ごろにポポン。入店拒否された帰りの電車でポポポポン!っとその応答が思い浮かんだのだ。座席に座りながら慌ててスケッチブックを取り出し、思いつく限りのことを書き殴りながら整理していった。これは多分、突き詰めれば論文の一本や二本くらいは書けてしまう気がした。


 その応答をここで書きたいが、書かない。ポポポポン!という小爆発があったからといってそれがファイナルアンサーだとは思わない。まずこれを足がかりに、さらに深めていくつもりだ。というか、こんな自分の命に関わるような大事なこと盗まれでもしたら嫌だし書いちゃいけないなと思う。


 すごく良い瞬間を味わった。放ったらかしにしているなあ、自分ってまじでダメだなあと毎日うっすらと自責の時間を積み重ねているだけだと思っていたら、実は頭で考えていないだった。バイトがなければ図書館へ行き作業して、バイトがあっても帰って何かしら作業をしてきたこの身体が、ちゃんと毎分毎秒考えてくれていたのだ。放ったらかしたり、逃げたりすることは、完全な消滅ではなく、知らない自分の何処かで脈打っているんだと気がついた。どこまで逃げても、自分の人生を賭けた問題意識のなかにいる。その安心感と身の毛がよだつほどの狭い世界。これであってるのかなと思いつつも、どうでもいいから作業しろと自分に浴びせてきた叱責は、ポンと起こった小爆発により包まれた!綺麗だねー。韓国は星が見えないけど、朝も夕方も夜も、くっきり月が見えて綺麗。
 君がいないことは 君がいることだなあ

 今日は、『朝鮮と建築』に掲載されていた巻頭言1932年6月、7月、8月、9月、10月、11月、12月分、そして「異常ナ可逆反應」「建築無限六面角体」の最終確認作業、それらのフォルダ保存、フォルダ内整理、次回noteの構成を考えること、研究の根本的態度の再考、この原稿の執筆を終わらせました。

 作業をすること自体は苦じゃないが休みたいなと思う。こうして休みは必要だとわかっているものの、休めない。休み方を教えてください誰か。といっても私が、休むことと休む恐怖を天秤にかけて圧倒的に後者をとってしまうこの思考から摘出してくれ。
メリークリスマス。

二〇二三年、一二月、二五日、執筆、更新。

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