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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第六十七回〉
二〇二五年一月二九日
一昨日、提出物があった。キム先生から頼まれていた校正作業である。
今日はその内容を仔細に記していこうと思う。
▼校正作業内容▼(14作)
(題目が一部旧字体が再現不可能のため新字体に統一した)
《蜻蛉》発表誌面:「乳色の雲」、1940年
《一つの夜》発表誌面:「乳色の雲」、1940年
《隻脚》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《距離(女去し場合)》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《囚人の作つた箱庭》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《肉親の章》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《内科—自家用福音— —或ハエリエリラマサバクタニ—》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《骨ニ関スル無題》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《街衢ノ寒サ—一九三三年 二月十七日ノ室内ノコト—》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《朝》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《最後》発表誌面:「李箱全集」、1956年
《悔恨ノ章》発表誌面:「現代文学」、1966年7月
《一九三一年(作品第一番)》発表誌面:「李箱文学テキスト研究」、1998年《無題》発表誌面:「李箱文学テキスト研究」、1998年
▼底本資料▼
・《隻脚》、《距離(女去し場合)》、《囚人の作つた箱庭》、《肉親の章》、《内科—自家用福音— —或ハエリエリラマサバクタニ—》、《骨ニ関スル無題》、《街衢ノ寒サ—一九三三年 二月十七日ノ室内ノコト—》、《最後》、《朝》、《悔恨ノ章》、《一九三一年(作品第一番)》、《無題》は作家直筆原稿のデジタルデータ化資料を参照
・《蜻蛉》、《一つの夜》は1940年出版の「乳色の雲」(金素雲訳)の影印版の印刷資料を参照
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▼校正方法▼
・《蜻蛉》、《一つの夜》、《隻脚》、《距離(女去し場合)》、《囚人の作つた箱庭》のみキム先生から頂いた2013年出版の「이상일문시-증보정본전집(李箱日文詩—増補定本全集)」デジタル資料に直接打ち込み
・《肉親の章》〜《無題》は、自宅にて印刷した資料に赤ボールペンで書き込み
▼校正における視点▼
・誤字脱字の有無
・底本資料とキム先生版を比較して、全角空白・半角空白が再現されているか否か
・促音が適切に再現されているか
・旧字体と新字体がそれぞれ底本資料通りに再現されているか
・ダーシや括弧、?・!等の記号が底本資料通りに再現されているか
・文字のサイズは底本資料を参照・再現されているか
・句読点の位置修正
・底本資料ルビなし/キム先生版ルビあり 箇所の修正
・改行の位置が底本資料通りに再現されているか
・底本資料を誤って文字入力した箇所の指摘、代替案の提案
・文字間の空白訂正
▼校正を終えての感想▼
数だけ見れば多いが、頁数自体はそこまで多くない。ただ、働きながら他の勉強もしながらの校正作業だったので多少時間がかかった。
▼校正を終えて見えた今後の課題▼
・校正・テキスト解読、テキストデータ入力の際は、とにかく原文を何度も何度も読むことが重要。目が慣れてくるから。
・何度も何度も原文テキストを読んだあとは、数日置く。そしてまた原文を凝視するとなぜか”読めるようになる文字”が発生する。
・校正、改訂など曖昧な語を先生が発した時には思い切ってその意味や、内容を質問する。私が認識している意味や内容と異なっている場合がある。
二〇二五年一月一五日
※テキスト解読、データ入力の際に書き殴った文章を発掘した。東京旅行からの帰りの新幹線でへとへとうとうと状態で書いたテキストだったはず。
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キム先生の依頼を受けた。依頼内容は、李箱がかつて日本語三文の肉筆原稿(画像データ)をもらい、それをWordでテキストデータ入力をし、それを翻訳するものであった。
文学・読書好きな人ならばわかると思うが、肉筆原稿というのはやはり興奮する。それが目の前にあるわけではなかったが、インクの濃さや掠れ、字の綴り具合など手癖がくっきり見えると「今まで自分が読んでいたものは度重なる編集の最終形態だったのだ」とより実感できてしまう。
李箱の字はわかりにくい。「ソ」「リ」などの判別が難しいのはよくあることだが、「フ」のように「ソ」が書かれていたり、漢字では「望」と思われる字が「第」の簡略字に見えたりすることを考えると、李箱はかなり省略して書く方の人間だと思う。だから原文初見のときは、判別不可能箇所が全体の二割くらいある。第一回目の確認で判別不能箇所は全体の二割ほど。それを二回、三回の精読と検討、第三者との確認をおこなうことで、十割のうち一割五…一割…最後は三分ほどの判別不能箇所に減らしていくことができる。
では三分まで減少した判別不能箇所は解決したのか?と訊かれれば、こう答える。
「様々な可能性を考慮し、何文字も当てはめて考えた結果“これが最も近しいと考えても差し支えないと思う”」。
恥ずかしいほどに曖昧な回答。
現時点で、キム先生から協力要請があった肉筆原稿は二つ。
一つは15行ほどの散文。問題は文字の小ささと簡略字の多さ、そして原稿と思われる文字の上に、青っぽいインクをつかって書かれた何か外国語の落書きが頁一体に書き散らされていることだ。もう一つの肉筆原稿は全部で5行。落書きはないが、依然として文字の小ささと簡略字の多さは目立つ。
三分から判別可能な文字を増やせば良いと考えることもできるだろうが、一度(読めないな)と思った文字が、その後精読をするうちに(もしかして○かも?)と予測できるレベルに達してもしても確信に変わることはほとんどない。むしろ一度躓いてしまったらその後ずっと(この字として判断して良いのだろうか)という不安感が残る。そうやって不安だ何だと言って、判断できないままでは作業は終わらない。よってキム先生も私も、その不安感の中を掻き分け掻き分け進み、ついに「文脈から推測するに○という字だ、よしこれでいこう」と腹を括るほかないのである。
韓国と日本、近いようで遠い。
定期的なZoom会議で役割分担や校正依頼が行われ、その後各個人で校正作業を進めていく。
それにしても一体これは何の作業なのだろう。
キム先生はこの一連の作業を単純に「データ入力」という。行為のみにフォーカスするならその通りだから何の間違いもない。しかし実際にやっていることとしてはもっと多い。
肉筆原稿の文字の推測と判別、他者と相談したり他の肉筆原稿と比較しながら文字の入力、その後再びテキスト全体を考慮して再度校正作業を行う。私は作業をしながら自分のことを「李箱の原稿を元に二次創作しているんだ」という気持ちになった。李箱は各所で字を簡素化して書いている。私たちがどれほど骨を折って李箱が書き残した肉筆原稿を解読したところで間違いは必ず発生する。必ず、なのだ。そこには本来、何が書かれていたのか、
私たちは誤読したまま編集してしまったのか、作家である李箱は死に、訂正してくれる人は誰もいない。重たいことをしているのに、その重さを徹底的に考えてしまうと手も鉛のように重くなり、動かせなくなる。
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資料二点の依頼をできる範囲で完遂し、キム先生にメールでデータを送信した。そのとき、この一連の作業で最も大事なのは、最後の勇気だと何度か思った。一文字に対してたとえば4つの文字候補を挙げたとして、最後には何かを決めなくてはならない。その決定の勇気、万が一誤っていたときにそれを認め、訂正する勇気。その用意がなければ終わらない作業だと思う。
辞書や他資料との比較はもう慣れるしかない。作業者の人生から捻り出せる最適解は「勇気をもって作業に挑む」だ。
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