
長編小説「長いお茶会」・第1章⑧春。私は、「奇妙な貴婦人」卿子と出会い、お茶会に誘われる。
**前回までのあらすじ**
喫茶店で知り合った女性、卿子に誘われてお茶会にやってきた「私」は、そこで、お茶の専門家である令子に話しかけられる。そして、秋から彼女の経営するお茶の教室で助手として働くことを提案され、「私」は快諾する。実は、この話を取り持ってくれていたのは、卿子であった。そのあと令子は「私」に、卿子とも自分とも共通の友人である映画スタア、鏡晴美(カガミハルミ)を紹介する、と言い出す。
*****************
令子は大きな声で、会場の外へ向かって鏡の名を呼んだ。
彼はそのとき庭のほうにいたのだが、令子に呼ばれると、お茶のカップを持ったまま人の群れをうまくすり抜けてこちらへやってきた。彼の動きにあわせて私たちも庭のほうへと移動し、お互いに接近していった。
映画でも、女王に扮した鏡がカメラに向かって(つまりそれは観客に向かって、ということでもあるのだが)歩いてくる場面があったが、このとき、私の目が映していたのは当然、ドレスを着て女王を演じている鏡晴美ではなくて、スーツを着た現実の男性としての、鏡晴美であった。
彼は思っていたほど長身ではなかったが、すらりとしていて、上品な青のスーツがよく似合っていた。これまで二次元でしか知らなかった彼の顔を、私は間近でじっくりと、見た。線の細い、整った顔立ち。しかし、その表情はやわらかくおだやかで、威厳に満ちた女王陛下の面影はどこにも見当たらなかった。
あの「女王」とこんな形で再会するとは、と私は思い、そして、うまく言えないが、なぜか、妙な感じがした。スクリーンの中で女王を演じていた彼が、本来の姿で、急に、自分の目の前に現われたためこんなふうに感じてしまうのだろうか?とも思ったが、このときの私には、「妙な感じ」の正体がなんなのか、よく、わからなかった。
令子は私を紹介する際に、景都ちゃんは小説を書いてるのよ、とつけくわえるのを忘れなかった。それはまるで、私のことをずっと前から知っているかのような口ぶりだった。
「そうでしたか。失礼ですが、どんな本をお書きになっていらっしゃるのか、タイトルをお聞きしてよろしいですか」
これに対してまじめに答えた私に、鏡はにっこり笑ってこう言った。
「こういうときは適当にタイトルをでっちあげて、『あなた、この私のことを知らないの?』というような顔をしていればいいんですよ」
それから彼はちらりと会場のほうを覗き、次に庭全体を見渡して、言った。
「卿子さんは今、どこらへんにいるのかな。こっちに出てきているとは思うんですが、姿が見えませんね。ここの庭は、広いですからね。ほかのホテルの庭とは違って、牧場みたいにただ、芝生がずうっと続いているだけで・・・ちょっと、変わってるでしょう?だから、あんまり遠くまで行ってしまうと、戻ってくるのも大変なんですよ。そうそう、昔ね、このお茶会で、ちょっとそこらへんを散歩してくる、と言って会場から庭へ出て、それでそのまま、戻ってこなかった人がいるんです。その人、いまだに行方不明のままなんですよ」
「そんなことあったの?じゃあ、私も気をつけなきゃ」
令子が言った。仕事が決まって機嫌がよかった私は、二人と一緒になって笑った。緑の地平線を端から端まで確認して、たしかに変な庭だ、とは思ったが、それよりも私は、卿子の姿がどこにも見えない、ということのほうが気にかかった。長年の友人も来ているのだから、ひと声かけるなりなんなりすればいいのに。しかし鏡は、いいんですよ、と笑った。
「いつもこんな感じなんです。僕たちは、街で会ってもお互いに知らん顔するときのほうが多いんですよ。彼女はたいてい、忙しいですからね。今日は話しかけないほうがよさそうだ、と判断したら、ただ黙って通り過ぎる。これが僕の、彼女に対するマナーなんです。卿子さんのほうは、めんどうだから僕に話しかけないだけなんですが」
「ねえ、鏡さん、前から思ってたんだけど」
令子が言った。
「あなたって、街で会ったときは卿子さんの様子を見て気を遣うのに、彼女の家を訪ねるときは何も連絡を入れないのよねえ。いつも、いきなり庭に現われるでしょ?」
彼女に言われて鏡は、まあいいじゃありませんか、と笑った。
「散歩をしている途中で、なぜか急に彼女の家に行きたくなることがよく、あるんですが・・・そのときになんとなく、今、卿子さんが家にいるな、ということがわかるんです。それから、訪ねていいかどうか、ということもね。僕はなんだか、あの家がこちらにメッセージを送ってきてくれているような気がするんです。不思議な魅力を持った、あの家が・・・卿子さんの家の独特な雰囲気については、景都さんももう、よくおわかりですよね。あそこで、生活してらっしゃるわけですから」
彼が何を言っているのかよく把握できていないまま、いいえ、と私は首をふった。
「私は、一度、うかがったことがあるだけです」
「そうなんですか。卿子さんから以前、下宿人を置くことにした、と聞いていたので、あなたがその、栄えある第一号かと思ってしまったんですが」
違います、と私はまた首をふった。
しかし、否定しながらも実は私はこのとき、あの家で、自分がふっと考えたことが、実現の可能性を帯びてこちらに近づいてきているのを感じて、胸が高鳴っていた。「あの部屋」・・・あの部屋のベッド、机、椅子、あの大きな本棚、あれらはみんな、下宿人第一号が来るのを、待っているのだ。
「ええ、そうですよ。卿子さんは二階の部屋を整えて、あそこに住むのにふさわしい人が現われるのを、待っているんですよ。景都さん、家に行ったときに、このことについて、彼女から何も言われなかったんですか?」
ええ、何も、と前置きしたうえで私は、あの二階の部屋で彼女とのあいだで交わしたやりとりを、鏡に話した。すると彼は、真剣な表情になった。
「なるほど、下宿したい、と言ったのは冗談のつもりだった、ということですね。しかし、本当のところ、それがあなたの、正直な気持ちだったんでしょう?」
ええ、まあ、と口ごもる私に、鏡はこう断言した。
「卿子さんのほうはきっと、あなたの発言を、そのまま受け止めているはずですよ」
「ねえ、景都ちゃんが今住んでるところって、どんなところなの」
令子が横から、口をはさんできた。
「小さいアパートです。部屋は、日当たりが悪くて、せまくて、休みの日にずっといると、憂鬱になってくるような」
「そんなところは、一刻もはやく出たほうがいいですね」
鏡は、これは非常に重要な問題である、といった顔で、私に言った。
「何よりも景都さん自身が、引っ越したい、と思っているんでしょう?あなたは、太陽の光を求めているんですよ。日の当たる場所へ、出ていらっしゃい。卿子さんの家なら、明るいし、広いし、何よりも、下宿代が安い。そこらへんのアパートなんかに住むよりも、ずっと好条件ですよ」
「ねえ景都ちゃん、卿子さんの家の下宿代ーあの素晴らしい環境に賄いつきで、いくらだと思う?当ててみて」
当ててみて、と言っておきながら令子は、自分のほうからその金額を口にした。何がおかしいのか、彼女はくすくす笑っていた。冗談だろうと思っている私に、鏡が言った。
「信じられないかもしれませんが、本当ですよ。卿子さんは、一年前に住み込みのメイドさんを雇ったことで・・・ほら、あの、優秀な娘さんですね、彼女を雇ったことで、ちょっとした心境の変化があったようですね。それまで他人を家に住まわせたことはなかったんですが、ずっと空いたままの部屋もあるし下宿人を置いてみようと、閃いたわけです。彼女は普段、才能ある個性的な人たちに仕事を紹介しているわけですが、それだけでなく、そういった人を下宿人として置いてみよう、と。下宿代が良心的なのは、彼らを助ける意味もあるわけです」
私は、自分が卿子に、「才能があって個性的」だと思われているとはどうも信じられなかったが、しかし、なんだかよくわからないがとにかく、気に入られたことはたしかなようだった。
「気に入られたのよ」
令子の声が、私の耳に甘く響いた。
「景都ちゃんは、卿子さんのおめがねにかなったのよ。だから、会ってすぐに家に誘われたのよ」
目の前の緑の芝生も鏡も令子も、談笑しているお茶会の出席者たちも、みるみるうちに私の意識から遠のいていった。頭の中で、新生活がはじまった。あの家の、あの部屋。朝、カーテンの隙間から入ってくる金色の光。気持ちよく目覚める私。朝食をとり、そしてアルバイトへ。あの家からなら、通勤も可能だ。いや、あそこはもう辞めたことにして、お茶の教室へ出勤だ。楽しく仕事をして、帰ってきたら夕食の時間まで執筆。食事のあとまた少し執筆して、入浴(素敵な浴室!)、そしてあのベッドで、ああ今日も一日充実していた、と思いながら、眠りにつく。そして次の日も、同じように目覚める。今日は仕事はお休み。午前中は小説を書いて、午後は何を、しようかな・・・。
「それでは、僕と景都さんは近々、あの家でまた、お会いすることになりそうですね」
鏡の台詞によって、私は自分がまだ下宿人として契約を結んでいないことを思い出した。それどころか、この件について卿子と「きちんと」話すことさえしていないではないか。
「そのとき、もし都合がよかったら一緒に出かけませんか。おいしいお茶を、ご馳走しますよ」
「でも、鏡さんはお忙しいんじゃありませんか」
言っておくが、私はこの「有名な映画スタア」の誘いを、本気にしていたわけではない。どうせ気まぐれで口にしているのだろう、と思いつつ、そう答えたのである。
「いえ、僕はちょうど、今日から充電期間に入ったんです。映画の仕事を再開するのは一年後なので、時間はたっぷり、あるんですよ」
第1章⑨へ続く。
この小説は7章⑩で完結です。
いいなと思ったら応援しよう!
