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かわいそうではない40歳くらいの女の人(2020.5.1)

 あと二ヶ月半で不惑に手が届く。

 実年齢を吹聴したい訳ではない。自分がどれだけの時間を生きてきたかを体感できる数字で見てみたかっただけだ。たとえば今、死を選ぶとして何年生きたことになるのか。この先何歳まで生きたいとして人生の何合目にいるのか。何も恐れず幸福だった時間からどれほどの距離にいるのか。

 実際、それぞれの出来事から何年生きているのか数字を書き出してみたのだが、人生において褒めるべきところが少なく、自分の汚点を晒すのがあまりにも恥に感じられたので打ち込んだのを全て削除した。何歳まで生きたいかというか、昔から折に触れ52歳の自分という存在を想像してきたので、52歳まで生きるとすると残りの人生は12年ということになる。想像以上に少ない上、人生の5分の4を恥と汚点と悪行で埋め尽くしてきたのかと思うと、私が体感できる人生はこれ一度きりなのにどうしてこんなことを……と呆然とし、取り返しのつかない時間や人生というものに気づかなかった己に悪態をつくだけの元気もなく、自分は社会が私をそう見なすように本当に馬鹿だったのかと気づきたくないものの前に立つことになった。

 小説を書いていると、救いがたく、それが自覚さえできていない人物がいるし、不幸になったり、救われないまま死んだりする。それはそのままで存在させなければならないと理解できる。それが自分のことだと気づくのはとてもとても痛いことだった。「じゃあ、悪いところを直すから愛して?」とその人物は言うだろう。違うのだ。根本的なところから、己と己以外ものの見方・捉え方・考え方の枠組みから違うのだ。

 ゴミを捨てに裏口に向かう途中、五月の陽を浴びた。涼しい風。くたくたのTシャツは私に愛想を尽かし分子崩壊するなんてこともなく裾を揺らす。

 自己肯定感とは、自分を好いてくれる人がいなくて、必要とされず、汚いものとして嫌悪される社会(コミュニティ)においても、また自分がいいことを出来ない人間であっても、才能がないと理解してしまっても、その社会において生存活動を意図的に継続するということなのか、と思い、呼吸をした。

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