見出し画像

③公立中学の教員になったもののカルチャーショックだらけだった理由

体調を崩して間が空いてしまいました・・・。ずっと子どもたちと一緒で自分のペースで過ごせる時間が少ないことがストレスになり、工夫しないとすぐ消耗してしまいます。コロナ禍における自分のトリセツを早く完成させなければ。

さて、HSP教員は工夫で最高の教員になれる!と信じている私。さっさとそれについて書きたいのですが、その前に私のこれまでのことを少し書いていきます。

初任校は公立中だった私ですが、私自身の中学時代は海外の日本人学校で過ごしました。クラスメートは13人、みんな恵まれた家庭の良い子たちでした。勉強は頑張ったものの部活はお遊び程度、休みの日はタクシーに乗ってデパートでショッピング、または友達とホテルのカフェでお茶というセレブすぎる中学時代を過ごし(当時は物価が安い国だったのでこういう過ごし方ができました)、卒業と同時に帰国したので、日本の普通の中学校は経験しませんでした。

私が教員になることを決めたのは母校の高校で教育実習をした時です。そこで私はこともあろうか「あ、私この仕事できるな」と思ってしまったのでした。院生だったこともありしっかりして見えたようです。複数の先生方から授業をほめられまくり、完全に天狗になりました。その時は就職活動もしていましたがそちらはあまりうまくいっておらず、もう学校の先生でいいじゃん!と一瞬で方向転換。それから採用試験までは2,3週間。慌てて勉強を始め、なんとか滑り込みで合格しました。

高校を希望したのですが、蓋を開けてみたら中学校採用でした。まあいいか、と就職してみたものの、カルチャーショックのオンパレード。1年目は本当によくやめなかったな、と思うほど毎日ボロボロでした。カルチャーショックの中をフラフラ歩いて日々サンドバッグ状態でした。それでもたくさんのラッキーな要素に助けられてなんとか辞めずに働き続け、途中育休1年半をはさみ初任校で7年間勤めました。

公立中カルチャーショック1: 子どもたちが勉強が嫌い、というか興味がない。

初任校の子たちは「こんなに?」と思うほど勉強しませんでした。さらに親もあまり気にしてなさそう。自分の中学時代は自分も周りも試験前は死ぬほど勉強していたので、ここまで勉強しない子どもたちに会ったのは初めてでした。授業は、工夫に工夫を盛り込まないと聞いてもらえませんでした。1、2年目はクラスによってはまったく聞いてもらえず、とてもつらい思いをしました。話してる時におしゃべりされるのがこんなに傷つくことなんだ、と知りました。「子どもらには悪気がない」ということがその時は理解できなかったのですね。彼らは、ただ勉強に興味がないだけでした。素直な反応なのです。しかし、勉強が好きな人たちの中で育った私は、勉強が好きじゃないという子たちの中に放り込まれ、完全に自分の使命を見失いました。「ここがわかりません助けてください」という子に対してならいくらでも力になれると思いましたが、そんな子は学校に1人か2人しかいませんでした。勉強に興味のない子たちに自分ができることは何なのか悩み続けることに。

公立中カルチャーショック2: PTAバレー・地域の祭等に強制的に参加させられる。

とにかく教員の仕事の幅広さに度肝を抜かれました。土日の部活などは覚悟していましたが、毎週金曜夜7時からのPTAバレーですよ。若い女の先生が参加しないわけがない、という雰囲気で、私は死ぬほど下手でしたが参加していました。コーチに「へっただなあ!」と暴言を吐かれながら・・。でも仕事の一部だと信じて、嫌々ながら参加していました。終わるのは9時過ぎ。1週間働いて、最後のトドメといった感じでした。あとは地域の祭りで役割のある子どもたちの引率、隣の公民館での英会話クラスの先生なんていうのもありました。もちろん休日です。手当は出ないものがほとんどでした。こう改めて書くと完全に学校職員の域を越えているように思いますが、これらの仕事は校長先生から当然のように飛んできました。「これ私の仕事なの?」ともやもやを抱えながらこなしていました。

こんな感じで、自分が公立の中学校を知らずに育ったことによりたくさんのカルチャーショックを受けることになりました。他の先生方にも「どうしてこの人ここに来たのかな・・」と思われていたのではないかと思います。生徒をひきつける授業ができるわけでもなく、生徒指導がうまいわけでもなく、部活指導が好きなわけでもない。そりゃそうです。私は「勉強が好きな子たちにわかりやすい授業をしたい人」だったのです。公立中では、それよりも「部活指導が得意」とか「生徒指導ができる」とか「クラス運営がうまい」とか、そういう人が求められる場所でした。

これ、今なら分かるのですが、その時はとにかく「役立たず」になりたくなくて、苦手なこともできるようになろうと必死でした。つらかったです。自分はカタツムリなのにうさぎのようにぴょんぴょん跳びたいと練習をしていたようなものですから。

次回は3年目以降、教員としてうまくいくようになった転機を書きます。

いいなと思ったら応援しよう!