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『僕のこと、知ってる?』/乃木坂46の歌詞について考える

『僕のこと、知ってる?』。紛れもなく名曲である。

ドキュメンタリー映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』の主題歌であり、24thシングル『夜明けまで強がらなくてもいい』のカップリング曲として収録されている。

この曲の歌詞についてTwitterなどで調べてみると、賛否両論どちらの意見も多く、と言うか歌詞の解釈自体人によって千差万別、「こういう曲だ」と一口に結論付け難いように思う。

ただ個人的には一つ「こうだな」という見方をしておりまして。

これが正解だと言う気はさらさらありませんが、千分の一、万分の一の参考例ということでお付き合いいただけたら幸いです。

まずは歌詞にのみ着目して、その示すところを探っていく。

全体としては、言葉をほぼそのまま受け取っていいように思う。

その上で描かれているのは「アイドルになってしまったことへの苦悩」だ。もちろん、その「アイドル」は「乃木坂46」である。

乃木坂46は全国オーディションによってメンバーが選ばれるのが主である。そんな形式だからこそ産まれる、ある時からいきなりアイドルになった「普通の女の子」の苦悩。

例えば3期生・大園桃子、鹿児島の片田舎で暮らす女子高生であった彼女は、新メンバーに選ばれたことで、都会に1人移り住み、アイドルという仕事に勤しんでいる。

彼女の背景をイメージしつつ読んでいくと理解し易いように思う。もちろん、彼女だけでなく多くのメンバーが(あるいは他のグループでも)当てはまることである。

知らない街のどこかに一人で立っていた
どうしてここにいるのか僕にもわからない
Oh……

人混みの中ぽつんと途方に暮れてたんだ

迷子だ

来たこともなかった見知らぬ街・東京、経験したことのない雑多な人混み。暮らす場所も生活も一変し、次第に「自分の居場所」がわからなくなる。それは「何処」もだが「何故」もだ。

そばの誰かに聞いても答えてもらえない
他人のことなど結局親身になれないのか

道の先がどこまで
そう続いていようと
通行人には関係ないんだ

自分が向かう場所まで辿り着けばいいだけ
勝手だ
傍観者たち

すれ違う見ず知らずの人達は〈僕〉に見向きもしない。その疎外感、孤独。他人は他人でしかないという救いの無さ。

とりわけ桃子は元々乃木坂46やアイドルにも興味が薄かったという。そんな彼女にとって、オーディションを受けたのは自らの意志だとしても、最終的にグループへ加入したこと自体は人生において予期せぬ出来事と言える。〈どうしてここにいるのか〉と感じることもあっただろう。

青い空は澄んでていつもよりも綺麗で
何故だか涙が止まらなくなった
風が吹いたせいなのか?雲はどこへ行ったんだ?

しかし、何気なく見上げた空には見覚えがある。「この空はどこまでも繋がっている」なんて月並みなフレーズがあるが、時にそれは強く作用する。

記憶の片隅にあるものと同じ光景を目にしたとき、それは自然と涙を誘うのだ。

今までのこと何にも覚えていなかった

記憶喪失

そんな暮らしの中で突如訪れる感覚。この〈記憶喪失〉は言葉そのままの意味ではない。

過去の自分(自然豊かな生まれの地でのびのび暮らしていた自分)と、現在の自分(都会に住みアイドルという職業で日々忙しなく活動している自分)が一つに繋がっていない感覚。

今の日々が、あの頃送っていた生活から導かれた未来だと感じられない。今の自分がほんの数年前まであの生活を送っていたとは思えない。

そんな過去と現在の不連続性。現在に無理なく繋がる記憶が、まるで自分の中に存在していないように感じる。

そういった、記憶と今の自分との断絶。〈何にも覚えていなかった〉〈記憶喪失〉というラインはそうした意味を持つように思う。

僕のこと、知ってる?ねえ誰か教えて
何者なんだろう 考えたって自分のことが思い出せない
僕のこと、知ってる?手がかりが欲しいんだ
ここまで生きた思い出さえ落としたのかな
捨ててしまったか 忘れてるのか

そして不安定になった〈僕〉はアイデンティティを見失いかける。確立していたはずの自己が崩れ始める。

今の自分、過去の自分、どれが本物なのか、どれが望んでいたものなのか。〈記憶喪失〉によって生じた混乱は〈僕〉を惑わせる。

〈ここまで生きた思い出さえ落としたのかな〉という「記憶喪失」と同様のラインがここにも現れるが、突然の変化に伴う過去と現在の断絶がやはりこの楽曲のポイントである。

僕のこと、知らない?会ったことないかな?
見かけたことくらいありませんか?
何か隠してる そんな気がする
僕のこと、知らない?足跡を見つけたい
誰かに似てるとかでいい
勘違いでも ただの誤解でも
思い込みでも
それでも僕は迷子のままだ

不安、焦燥感、苛立ちを募らせる〈僕〉。雑踏のその中を彷徨いながら、手あたり次第に答えを探そうとする。しかし、〈勘違い〉〈誤解〉〈思い込み〉に縋っても、それでも望む答えは得られず、呆然と立ち尽くす。

本当の僕は 今もきっと
いつかの僕を 探したいんだ

このラインが非常に秀逸である。絶妙に意味が不明瞭であり、広く解釈の余地を持たせている。

〈いつかの僕〉というワードがポイントである。ここまでの流れを踏まえると、〈いつか〉とは一見〈捨ててしまった〉と思われていた過去を指しているようであるが、同時に未来の〈いつか〉を指しているとも読み解ける。

〈本当の僕〉が「過去」を追うか、「未来」を求めるか、どちらとも解釈できる。上で書いた言葉をセルフ引用するなら「千差万別」に委ねられている。

そう誰も知らない世界へ行きたかった
顔を晒したって気付かれない
人混みの中歩きたかった
自分が誰かどうだっていい

そして〈僕〉が得た結論がこれ……に思えるが、おそらくこれは〈僕〉にとっての正しい答えではない。

一見すべての悩みから解放され〈どうだっていい〉と思える境地に辿り着いたように見えるが、むしろこれは、考えることを放棄した「自暴自棄」でもある。

〈いつかの僕〉(過去であれ、未来であれ)を探すことを命題としていた〈僕〉にとって、〈誰も知らない世界〉〈自分が誰かどうだっていい〉とは、アイデンティティの喪失を受け入れてしまう言葉である。

それこそ〈顔を晒したって気付かれない〉とは、そもそも自分が存在しない、誰にも認識すらされないことを望んでしまっている。

(上でも挙げた〈通行人には関係ないんだ〉を、さもポジティブかのように受け入れた状態に甘んじることになる)

一時的に答えのようなものを出したかに思われた〈僕〉、しかし根本的解決はされておらず、実際の内面では同じ問答が繰り返されたままである。

僕のこと、知ってる?ねえ誰か教えて
何者なんだろう 考えたって自分のことが思い出せない
僕のこと、知ってる?手がかりが欲しいんだ
ここまで生きた思い出さえ落としたのかな
捨ててしまったか 忘れてるのか

そして最後、何もかもどうでもよくなって街を闊歩する〈僕〉は、不意に顔を上げると、

街に貼られたポスター
誰かに似てるような…

それは〈自分が誰かどうだっていい〉と嘯いていた〈僕〉に突きつけられる現実。そこに映っていた〈誰か〉の顔は、ほかでもない自分自身であろう。「アイドル」として今この場所にいる自分。

そうして〈僕〉が「現在の自分」に引き戻されたところで、この曲は幕を閉じてしまう。

一度は考えることを放棄して悩みが解決したように思われるも、結局は同じ状況へと戻ってきてしまう(俗っぽく表現すると「ループ」)。

これが、この曲の歌詞だけで読み解ける意味であるように思う。

一言で言えば「何も解決しない」。

もう一言足すなら「この歌詞中では」「何も解決しない」。

つまり『僕のこと、知ってる?』が本来示すところは、この楽曲の中には無い。

本当に存在していないわけではないが、この歌詞の中には存在しておらず、あくまで"問い"を出すのみに終始している。

だからこそ、この『僕のこと、知ってる?』が示す"答え"を曲外から探さなくてはならない。

では、なぜ"答え"が曲外にあると言えるか。他の楽曲ならばそうそう起こり得ないが、『僕のこと、知ってる?』だからこそそれは存在する。

この『僕のこと、知ってる?』という楽曲は、乃木坂46が2019年に発表したものであり、ドキュメンタリー映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』の主題歌である。

つまり『僕のこと、知ってる?』はこの映画と同時に造られたもの。はじめから、この映画の一部として産み出されているのだ。

それによってこの楽曲は『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』と強く紐づいている。

それこそ、これらの関係性は単なる作品と主題歌どころではなく、相互に強く作用している。

だから『僕のこと、知ってる?』の答えは、そこにあるのではないか。映画の中から探ることが出来るのではないか。

ということで、ここまでが前提です。

と言っても、ここからは変に解説することは無い。

『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』では、細かく探るまでもなく、それ(答え)が数え切れないほど多く切り取られているからだ。ひいては、映画で描かれた以降の、現在まで続く乃木坂46の姿がまたそれに当てはまる。あくまで個人的見解に過ぎないが、観ていてそうとしか考えられない。

〈僕のこと、知ってる?/ねえ誰か教えて〉とアイデンティティを暗中模索していた〈僕〉≒メンバーが今手にしているもの。それは映画の中で何度も示されてきた。

2017年大晦日、当時のキャプテン・桜井玲香ちゃんが「ずっと仲良しでいようね!」「大好き!」とメンバーに向かって叫び、その場の全員でジャンプし年を越したあの瞬間。

レッスン中や番組収録やその合間にも、特に理由なく身を寄せ合い、じゃれあう姿。

西野の卒業発表を受けて呆然と涙を浮かべる与田の姿。

当時桜井がグループに引き止められる理由として語った「好きな子がいるから」「一緒にいたいから」という言葉。

桃子の「大好きな人がもう会えなくなるんですよ」「会えないことに強くなる必要ありますか」という言葉。

桃子との関係を「仲が良いわけではないんですけどね」と言いながら、何気なくそばに寄り添う飛鳥。

「お見立て会」の裏側で、自身の失敗を激しく悔やむ早川、それを抱き止め必死に励ます矢久保。

卒業するメンバーとの最後の番組収録を終えて涙が止まらない秋元、それを笑いながらも思わず貰い泣きする生田。

当時在籍したメンバーでは最後の出演となるレコード大賞のリハーサル映像を見つめ、自然と目を潤ませる衛藤や秋元、西野。

レコード大賞直前のSeishiroさんとの円陣、全員で手を繋いで円になり、順に手を握って一周した時発せられた全員での掛け声。

そのステージに向かう道中、涙を流す桜井の背中にそっと手を添える新内。

そして緊張の場を終えた桃子を見守る飛鳥は、彼女の「乃木坂も悪くないなと思った」という言葉を受けて思わず優しく抱き締める。

西野との最後の紅白歌合戦出演を終えて、高山は彼女のことを手にしていた大きな花束ごと抱き締める。

サムネイルにも使用した場面、7th year Birthday Liveで最後となる2人での『心のモノローグ』披露の前、白石は西野との大切な時間を惜しむように彼女を抱き締める。

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もう、これが全てではないのか。

アイドルになったことで『僕のこと、知ってる?』の歌詞にあるような状態に陥った彼女達。そこには苦悩や不安、喪失感といったものが感じ取れるが、同時に得ているものもあり、それは「乃木坂46」の中にあった。

〈街に貼られたポスター/誰かに似てるような…〉のラインで強烈に突きつけられた「自分はアイドル/乃木坂46である」という現実が、奇しくもそれを分かち合う仲間を産んでいる。

それこそ桃子は映画の中でメンバーを指して「大好きな人」と表現したが、それもまた人生が変わったからこそ出会った存在じゃないか。

『僕のこと、知ってる?』がアイデンティティが喪失しかける様を描いているのなら、『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』で見られた彼女達は、互いにそれを補い合っている。

相手の存在を認識し、受け入れ、想い合うことで、巡り巡って自分自身の存在を確かなものにしている。

「この人は、僕のことを知ってる。」と、互いに感じられる関係性を築いている。

「自分のことなんか誰にも理解されない」と感じる事は少なからず有り得ることと思うが、彼女達は、そばにいる仲間たちにそれを託し、また託されている。

もちろん、じゃあこれでもう『僕のこと、知ってる?』で描かれた状況が全面的に解決されたかというとそうではないだろう。

過去と現実の繋がりが感じられない感覚は完全に解消されるとは言えないし、生活や環境は変わったままであるし、〈本当の僕〉はまだ探し続けている途中かも知れない。

故に楽曲からは「答え」が切り離されていた。

というか本来的には「問い」と「答え」ですらないだろう。

『僕のこと、知ってる?』はどこまで行っても「現実」である。

その重い「現実」を背負いながら歩んでいくための「糧」。それが『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』に託されたものであり、かつこれまでにも絶えずこのグループが示してきた本質の一つであり、また『僕のこと、知ってる?』の先に置かれた結論であるように思う。

だからこそこの曲がライブで披露される際は、ステージ上に1,2,3,4期生が順に集い、そして全員が揃った時、輪を作って互いに確かめ合うように顔を向けて歌う。

常にその”確認”の作業は行われているが、今まで見た限りその時は皆笑顔であったはず。『真夏の全国ツアー2019』における神宮でのステージはあまりにも印象的だった。

そして同時に、彼女達は分かち合ったそれを放つように外に向かっても歌う。

8th year Birthday Liveにて『僕のこと、知ってる?』が披露された時、センターを務めた飛鳥が「8年間で関わった人への感謝をこの曲で伝えたい」といった旨の発言をしていた。

少なくとも、この曲の歌詞単体は感謝の意を乗せられるものではないだろう。

それはこの楽曲を歌う彼女達の姿そのもの、あるいは活動が9年目に到達したその事実、仲間と共にあるそんな「現在」を『僕のこと、知ってる?』を通して、これまでに交差してきた人々に宛てて示したのではないか。

「時にはこうした苦悩に苛まれることもあるけど、それでも私達は一緒にいれば大丈夫」

そんなメッセージがあの時の『僕のこと、知ってる?』には含まれていたんじゃないかなぁ、と思った次第です。

以上!




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