『マシンガンレイン』/乃木坂46の歌詞について考える
28thシングル『君に叱られた』Type-Aにカップリング収録されているアンダー楽曲『マシンガンレイン』。
今回センターを務めるは、3度目のアンダーセンター就任にして、今作の活動をもってグループから卒業することを発表した寺田蘭世ちゃん。
(11月9日、1st写真集『なぜ、忘れられないんだろう?』発売予定!)
そんな『マシンガンレイン』、サビ頭の〈ダダダダと〉というやたらアタックの強いフレーズが印象的であるが、歌詞の具体的な内容を見てみると、「〈教師とその教え子〉の禁断の恋愛」を切り取ったものである。
しかし、単にセンセーショナルなストーリーにしてみた、とか、禁断の関係を推奨している、とかいった事でないのは一目瞭然。
その内容を紐解いてみると、これまでの表題曲とアンダー曲の関係性の例に違わず、『君に叱られた』と共通のテーマを持っていることがわかる。
君には叱ってもらいたい
『マシンガンレイン』について考える材料として、まずは背中合わせの存在である『君に叱られた』についてまとめていきたい。
『君に叱られた』の歌詞を、センターの賀喜遥香ちゃんは「"自分のことを叱ってくれる人の大切さ"を謳ったもの」との説明をすることが多い。
以前書いたnoteでは、そこからもう一歩考えを進めた読み解きをした。
『僕は僕を好きになる』で他者の存在や他者とのコミュニケーションを拒否していた〈僕〉。一曲を通してその姿勢が変化していったが、『君に叱られた』は更にその先。
かつて拒否していた他者の存在を受け入れ、他者の言葉を自ら求めるようになった〈僕〉の様が描かれた……といった内容である。
その描き方は「〈僕〉の過ち、誤った行動を〈君〉が正面から指摘する」という、まさに言葉通り「叱る」様子である。
〈君〉の厳しくも愛ある行動や言葉に、〈僕〉は〈頭を殴られた〉と錯覚するほどの衝撃を受け、その価値観、考え方を変化させた。自分の〈プライド〉よりも大切なことがあると思い知ったのだ。
その上で、『君に叱られた』において重要なのは以下のフレーズである。
端的に示すと、その言葉が「誰に言われたか」がまた重要であるのだ。
〈君には叱ってもらいたい〉〈君が叱って〉という箇所にまさに現れているが、たとえ内容が同じものでも、誰からでも言われて〈僕〉は素直に受け入れることが出来るかというと決してそうではない。
もちろん〈僕〉が正論を受け入れる気がないわけではないはずだが、この時〈僕〉が素直にその言葉を聞くことが出来たのは、〈君〉との関係性があってこそだった。
それこそ〈思いやり〉や〈やさしさ〉が、確かに含まれていると〈僕〉が感じられるからこそ、〈君〉の〈言葉〉を受け入れることが出来たのだ。
例えばクソリプだのヤフコメだのに見られるような、圏外からの無責任で非理解な言葉であれば、『君に叱られた』のストーリーが生まれることはなかった。
上で『君に叱られた』の〈僕〉について「他者の存在を受け入れ」と書いたが、それには「その他者がどんな存在なのか」という前提がある。
つまり『君に叱られた』で本質的に描かれているのは、自分への〈思いやり〉や〈やさしさ〉を持った存在が傍にいるならば、それをしっかりと認識して受け入れることだ……ということだろう。
そうだからこそ、はじめて〈言葉〉が刺さるのだ。
なぜ今決めなきゃいけないんだ
ここからやっと本題に入ろう。『マシンガンレイン』についてである。
まず結論付けてしまうと、『マシンガンレイン』は、『君に叱られた』と同様のテーマを逆の側面から描いている。そこにあるのは、〈思いやり〉や〈やさしさ〉が無い、無責任で非理解な存在に対する拒絶である。
「誰に言われたか」がまた重要である、と上で書いた。
こちらもまた、無責任で非理解な存在を挙げて、「そういった存在からの言葉は受け入れる必要があるのか?」ということを言っている。
ひいてはそれは、ルールやモラルとされていること、それをもって良し/悪しと判断されたことに対する疑問符の投げかけでもある。そこには「それは本人の意思に反しても優先すべきなのか?」という問いも含むだろう。
『君に叱られた』の〈僕〉は、〈君〉から投げかけられた言葉を前にハッとして認識を改めた。先述したように、それは〈君〉からの言葉であったからこそ〈刺さった〉ものだった。
対して『マシンガンレイン』の〈僕〉は、「なんでアンタ達に言われなくちゃいけないんだ」「なぜ〈古い常識〉を受け入れなければいけないんだ」という態度だ。
これは決して『君に叱られた』を否定するものではない。むしろ、逆説的に肯定するものだ。
『君に叱られた』では、〈僕〉の凝り固まった認識や、狭い視野を解きほぐすものとして、〈君〉からの〈愛〉ある言葉があった。そんなやり取りを通して、〈僕〉にとって〈君〉が大切な存在であることを示していた。
逆にこちらは、〈愛〉も理解もなく自分の都合や自分の気に入る/気に入らないで好き勝手にものを語る存在の言葉は受け入れない、そんな言葉では自分の意志を崩す気はない、という〈僕〉が描かれている。
言っていることが例え正論(じみたもの)であっても、即座に従わなければいけないのか。
それが誰にとって”正しい”か、一度検証するべきではないか。
〈僕〉の姿勢を通して、そういった問いが『マシンガンレイン』によって放たれている。
髪をほどいた君の仕草が
一方で、〈僕〉の言い分こそが明らかに正しいのかと言うと、そうでもなさそうなところが絶妙である。
そもそもの「〈教師とその教え子〉の禁断の恋愛」という設定によって、『マシンガンレイン』によって為しているのが単なる結論ベースのメッセージではなく、ひたすら「是非を問う」ものに仕立て上げられている。
実際問題として、教師と教え子の恋愛となると、例え本人らが「真剣なんです」と言おうとも大手を振るって肯定しにくいところがある。
それこそモラルという言葉を持ち出したくなってしまうし、少なくとも生徒が18歳未満であれば青少年保護育成条例違反に該当しうる。
かつ、そうでなくでも、『マシンガンレイン』の歌詞を読み進めてみると〈僕ら〉(あるいは〈僕〉一人)はどこか刹那的というか破滅的というか、彼の行く先には、幸せな結末がどうも待っていなさそうだ。
今夜〈君〉は〈僕〉のもの、なんて言っている内にどうしようもなくなってしまいそうな様子が、一層『マシンガンレイン』の〈僕ら〉を危うく思わせ、なおさらこの関係に安易にYESと言い難くさせている。
こうした描かれ方によって、「本当にそれで良いのか? どうなんだ?」と思わせもしつつ、という絶妙な落としどころに着地しているのだ。むしろ、そういったバランスを目指すべくこの題材になったとさえ想像できる。
とはいえ、『君に叱られた』から逆説的に描かれたテーマこそやはり本質である。
いやむしろ、本質としてその「問い」「疑問」を放っているからこそ、〈僕ら〉を一方的に正しく描いていない。
今回の〈僕ら〉こそ危ういが、彼らが今回取った無責任や非理解に対する姿勢も、決して失ってはならない大事なことだ。
世の中、時代の”正しさ”に振り回される、あるいは振り翳すのではなく、「その相手からの言葉は本当に受け入れるべきか?」「何をもって”正しい”言葉なのか?」という問いは常に持っておくべきだろう。
言葉なんか何もいらない
そのような、世間で是とされてきたことへの問い掛けといえば、つい短絡的にあの言葉を思い出してしまう。
「炎のスピーチ」とも題されたこれは、日本武道館で行われた乃木坂46クリスマスライブ『Merry X'mas Show 2016』における、1日おきに実施されたうちのアンダー単独公演2日目、座長である寺田蘭世によって語られた言葉だ。
『マシンガンレイン』でセンターを務める彼女だが、この曲で描かれた(具体的な設定はともかく)強気な姿勢は、どうにも彼女にふさわしいものに思える。
今作でセンターに選ばれた要因に「卒業」という事実が少なからず関係していそうだが、しかし、この楽曲の表現を、誰を中心に置いて行うのが最もふさわしいか考えた時、やはり寺田蘭世の名前を挙げたくなる。
『マシンガンレイン』という楽曲において、彼女が、表現者として先頭に立つべくして立ったのは間違いないはずだと、そう言いたい。
そして思い返してみれば、彼女が過去にセンターを務めた、シングル収録のアンダー楽曲で語られているのは、いずれも”言葉”へのNOであった。
『ブランコ』『滑走路』を『マシンガンレイン』とともに並べてみると、そこに潜んでいたリンクが見出せる。
それぞれの表している描写や意味こそ全く違うので、安易に「繋がってる!」「同じことを言っている!」と主張するつもりはない。
が、しかし「言葉なんかいらない」という表現はつまり、「では何を必要としているか」を同時に描いている。故に、この3曲は同じことを含んでいると取れてしまう。
『ブランコ』『滑走路』『マシンガンレイン』それぞれの深いところを抽出してみれば、同じことを示しているように思えてならない。
想像するにそれは例えば、上に貼った「炎のスピーチ」を読んでみると見えてきそうな、寺田蘭世というアイドル/人間が大切にしていること。目指していること。貫いていること。
この3曲のリンクから、ついついそういうのを感じ取ってしまわずにいれないのです。
まとめ
同じくセンターを務めた『ボーダー』、『その女』は、それぞれ「最後に残った研究生6人の正規合流」「アンダーアルバムの発売≒アンダーという組織におけるひと区切り」という他の子のことも含んだ大きなストーリーを切り取ったものなので、寺田蘭世のストーリーというよりかは、代表者として請け負っているようなイメージ。
要するに、上で挙げた3曲とは(シングルにおけるアンダー曲、という共通性のあるなし含め)また異なる線にある曲かなと思います。
そこら辺はまた別の機会に。
以上。