
『他人のそら似』/乃木坂46の歌詞について考える
先日(9月15日)午前0時から配信がスタートした『君に叱られた(Special Edition)』。
来週に控えた発売日に先駆けて全曲聴けるのをいいことに早速リピートしたところ、やはり『他人のそら似』が良いな!と。
『他人のそら似』は、8月21日の乃木坂46『真夏の全国ツアー』福岡公演day1にて、グループ結成10周年を記念する楽曲として初披露された。メンバー全員参加かつ歴代の表題曲の振り付けが盛り込まれており、何かと目も離せないメモリアルさがあるが、やはり注目すべきは歌詞だ。
この曲の歌詞について既に多く指摘されているのが、『僕のこと、知ってる?』とのリンクである。
他人のそら似 僕のこと知ってる - Twitter検索 / Twitter
確かに、ワード単位で比べてみても共通点が見出せる。また問いとアンサーの関係にあると受け取ることが可能な部分もいくつかある。
記憶喪失
君は僕のこと覚えてるか
誰かに似てるような
それとも誰かに似てるだけか
僕のこと、知ってる?
そうさもちろん君は君だよ
一方で、歌詞内で描かれている〈僕〉の行動、ふとした出会いから〈君〉の後を追ってしまう様子から、ストーカーじみた印象を受けるケースもあるようだ。あるようだが、それは想像力不足であると個人的には言いたい。
表面的に見て判断するのではなく、聴き手次第でいくらでも想像を膨らませることが出来るから歌詞というものは面白いのである。
〈僕〉が感じた、そうせずにいられない程の衝動……というか衝動を呼び起こした"理由"それそのもの。この「それそのもの」の正体を知ることなく想像を止めてしまうなんて、いくらなんでももったいないじゃあないか。
ということで、その辺りにフォーカスを当てて進める。
君とどこかで会った気がして
冒頭では、〈僕〉がたまたま出くわした〈君〉の姿に既視感を覚え、気になって仕方がなくなってしまった様子が描かれている。
僕の前でレジに並んでる君と
どこかで会った気がして
どこの誰だったっけって
全然思い出せないんだ
それとも誰かに似てるだけか
ドラマに出ていた女優だったか
でも確かにそっくりな君と見つめあったことがある
見覚えがある気がするだけでなく、感情をざわつかせる「何か」を感じ取っている。確かめたくって堪らない、そんな衝動も同様に芽生えている。
それがどうして僕をこんなに切なくさせるんだ?
声を掛けたいけど変な人と思われたくない
他人のそら似以上に
不思議な縁を不意に感じてしまった
カートを押して駐車場まで君を追い掛けたかった
何回もここにやってきたのに会わなかったよね
Oh 君は一体誰なんだろう
※面白いのが〈他人のそら似以上に〉とされているところ。タイトルが『他人のそら似』でありながら、〈僕〉が感じたものの正体は「他人のそら似ではない」と言っているのだ。2番でも後に覆されることを前提に〈他人のそら似みたいに〉と書かれている。
過去じゃなくて未来だった
〈僕〉が思わず〈君〉の後を追いたくなってしまう程に強く感じた"理由"それそのもの、サビにおいては〈不思議な縁〉と表現されていたが、その正体は後半にあたる以下の箇所にある。
そしてやっとわかったんだ
過去じゃなくて未来だった
ここでこうやって話し掛けて
(成り行き次第で)
そう何年間も付き合ってる今の彼女が君なんだ
この後で君のことを車で送ってくことになる
〈僕〉にとって〈君〉とは、後に恋人になる存在であった。
そんな〈未来〉のことが、〈僕〉は現在において不意に理解ってしまった。それもまるで〈過去〉の記憶かのように、元々知っていたことかのように感じたのだ。
〈僕〉と〈君〉の間にあった〈縁〉とは、偶然によって結ばれるものでも、出会ってから時間をかけて確立していくものでもない、時空を超えてあらかじめ確定していたものだった。
一言でまとめるなら、それは〈運命〉である。
運命はどんなときも
(思いがけない)
〈僕〉は偶然出会った〈君〉と自分の間にある〈運命〉を感じた。もっとざっくり表現すると"ピンときた"くらいの様子であるが、ともかく直感的に〈僕〉が感じ取ったものがそこにあった。
しかし、ひと口に「運命」と言っても逆に解釈の幅が広すぎるきらいがある。『他人のそら似』への理解を深める為には、もう少し厳密にしたい。
それにあたって一つふさわしい表現がある。
彼が感じ取った〈運命〉、言い換えるならばそれは、あらかじめ語られるロマンスではないか。
生まれた日からすべてのことが
時空を超えてはじめから確定している関係性について、『あらかじめ語られるロマンス』においてもそれは謳われている。
生まれた日からすべてのことが
どうなるかって決まっている
『あらかじめ語られるロマンス』に現われるこの〈生まれた日からすべてのことが/どうなるかって決まっている〉のラインがこそ、まさに『他人のそら似』の本質を言い当てている。
それは、時間や場所が少しでも違えば出会っていなかったかもしれない……なんてことは絶対にあり得ない、何がどうなっても迎える結果は必ず"これ"であるという、強烈な繋がり。
輝く12の正座の中に
あなたと私の運命がある
今は見えなくても引き寄せ合うその力
どんなに離れてても結ばれ合う
その奇跡
他人のそら似以上に
不思議な縁を不意に感じてしまった
そしてやっとわかったんだ
過去じゃなくて未来だった
そういった、〈君〉や〈僕〉をつないでる緩やかな止まらない法則、そんな〈不思議な縁〉を『他人のそら似』や『あらかじめ語られるロマンス』は〈運命〉と表現している。
『美少女戦士セーラームーン』クライマックスにおいて、「あたし達、結ばれるために生まれてきたのよ」との台詞がある。生まれてきた時、既に出会うこと、結ばれることが決定付けられていたと言うのだ。この作品も、前世から巡る運命がテーマの一つに置かれていた。
(奇しくも「ミラクル・ロマンス」と表現されたりする)
『他人のそら似』『あらかじめ~』において描かれたのも(前世・生まれ変わりまで含まないにしても)、後から形成される関係性を超越した、宇宙の法則としての〈縁〉であるのだ。
知らず知らず何かに引き寄せられて
だからこそ〈僕〉が思わず〈君〉が気になってしまったのは、何も不埒な考えによるものではないし、むしろひたすらに尊い感覚を以てのものだった。
ただ単に「見覚えがある気がした」とか「芸能人に似ていた」とか「女性に好意を持っていた」「以前からトラブルがあった」とかではないのだ。あくまで歌詞においてストーリー・描写がこうした形にまとまったに過ぎない。
『他人のそら似』が本来的に主題としているのは、『あらかじめ語られるロマンス』で語られているのと同様な、そこに示されている〈縁〉〈運命〉そのもの、またそれを〈僕〉が不意に感じ取った(感じ取ることが出来た)という奇跡そのものである。
そんな〈運命〉や奇跡が語られているからこそ、グループの10周年を記念した楽曲として『他人のそら似』はふさわしい、といちファンとして太鼓判を押したくなる。
思えば、乃木坂46メンバー達の間にある〈運命〉や奇跡を謳った瞬間をつい最近にも見留めていた。それは、3月30日に行われた『9th Year Birthday Live~1期生ライブ~』でのことだ。
10年間を最初から現在まで漏れなく歩み続けたのは、当然立ち上げメンバーである1期生達である。ライブ全体を通しても多幸感に溢れたマジ最高な時間だったが、そんなライブを締めくくったのが『あらかじめ語られるロマンス』であった。
本編を終え、アンコールも終え、モバイル会員限定アフター配信の最後に披露された『あらかじめ語られるロマンス』。
そもそもは星座占いにピュアな思いを委ねた可愛らしい楽曲であるが、しかしここまでの歴史を積んできた1期生達だけでこの曲が歌われてしまうと、先にも挙げた〈どんなに離れてても/結ばれ合うその奇跡〉の歌詞がもう、あまりにも効いてしまう。
これこそまさしく、乃木坂46というグループを通して出会った彼女達を祝福する言葉に他ならないじゃないか。
そしてそれは、彼女達に〈見えなくても/引き寄せ合う/その力〉が働いたからこその出会いだ。これを〈運命〉や「奇跡」と呼ばずに何と呼ぶのか。
いつの間にか僕らは
(知らず知らず)
何かに引き寄せられて
(運命に)
『あらかじめ語られるロマンス』において本質的に謳われていることは、つまりそういうことであるが、『他人のそら似』もまた同様である。そう言いたいのだ。
君とここにいる奇跡
といった、『あらかじめ語られるロマンス』を補助線にした『他人のそら似』の見方を踏まえると、冒頭で触れた『僕のこと、知ってる?』とのリンクもまた違って見えてくる。
先に挙げた、互いの歌詞から見出せる関連性をもって、『他人のそら似』は『僕のこと、知ってる?』のアンサーソングではないかとの意見が、世間的にはまま語られている。
〈すれ違う見ず知らずの人〉に突き付けられる孤独、不安げな心情の吐露、空虚さとそれに基づいた混乱ばかりが描かれた『僕のこと、知ってる?』。
それに対して『他人のそら似』がその回答を示している、と言われている。とりわけ象徴的な部分をもう一度載せよう。
僕のこと、知ってる?
そうさもちろん君は君だよ
こうして『僕のこと~』の〈僕〉は『他人のそら似』の〈僕〉によっていつか救われる……と認識するのは少し違うのではないか、と言えるのではないか。
なにせ、〈僕〉と〈君〉が出会うかどうかは〈生まれた日からすべてのことが/どうなるかって決まっている〉のだから。
そもそも『僕のこと、知ってる?』に対するアンサーとしては、その主題歌であった映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』において映し出された、メンバー同士の姿や交わされる関係性(それが彼女達の間で形成されたという事実)がこそ機能していた。
作品と主題歌という密接な関係だからこそ、2つの作品それぞれに問いと解答が切り離されていた(と、個人的に解釈している)。
そんな尊い存在と関係性は、乃木坂46への加入が決まり人生が変わったからこそ出会ったものだ………的なことを ↑ のnoteには書いたが、『他人のそら似』をもって紐解いてみれば、彼女達の出会いと関係性は最初から決まっていたことだった。
例えば5月9日に行われた3期生ライブでは、本編ラストの『思い出ファースト』披露後、MCを務めた梅澤が「こんなにも愛おしくて守りたいと思えた人たちに出会えたことが、何よりも幸せだなと感じています」と語った。
彼女が強く感じたであろう〈君とここにいる奇跡〉、それは偶然この面子で揃ったという結果論ではない。彼女達が生まれた日から、あらかじめ決まっていたのだ。
そういう意味では、『他人のそら似』で示されていることは「神の視点」と言えるかもしれない。彼女達の出会いと関係が、少しのズレ程度で実現が損なわれるようなことがない確固たるものであると、上位、あるいは外側の視点から保証する概念のようなものだ。
曲の関係を取りまとめるなら、『僕のこと~』と『いつのまにか~』という問いとアンサーの一つ奥の立ち位置に(大前提、あるいは世界観として)『他人のそら似』がある。2曲を照らし合わせると、そのように理解することが出来る。
神様を信じる強さを僕に
アツアツになってきてしまったので、そろそろ筆を置きたい。
ともかく『他人のそら似』で描かれているのは、『あらかじめ語られるロマンス』と同様な「時空を超えた強烈な繋がり」(それによって結ばれた関係性)はこの宇宙に確かにあるのだ、ということだ。
そして、当人が不意にそれに直面してしまったら、確かめずにはいれられなくなるほどの衝動に突き動かされてしまうだろう、ということである。
では10年を経たこのグループにいる彼女達(突き動かされたか否かはさて置き)の関係性は果たしてどういったものなのか……というのは、これまでに彼女達自身がどう言葉にしているかで客観的に判断出来るところではなかろうか。
まあ「運命」や「奇跡」なんて言うと、なんとも歯が浮いてしまう言葉ではあるが、素直に信じてみるのもたまには良いかと思う。神様を信じる強さを僕に、である。
早く来い来い発売日。
以上。
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