⑤『こんなに美しい月の夜を君は知らない』歌詞解説募集キャンペーン投稿録
これのその5。
(その4)
※当初、作成順に公開していた内容を『こんなに~』収録順に改めました。
My rule(乃木坂46)
19thシングル収録のアンダー楽曲『My rule』の歌詞には、とても力強い印象を受ける言葉が綴られています。〈僕〉は、一度決めた〈自分のルール〉を決して破らず、絶対に折れないぞと語ります。
それは実に勇気付けられる言葉なように思えますが、ただただ「力強い姿勢」かと言うとそうではありません。
「自分で決めたルールを守ることが出来るか」、それを自分自身に課し、自分の〈意思〉を〈試し〉ていると言うのです。具体的なルールの内容より、「(自分は)ルールを守り続けられるのか」自体を重要視しています。
上に挙げた言葉は、「〈何があっても逃げ出さない〉ぞ」という確たる宣言ではありません。
果たして自分はそれが出来るのか、「自分は(困難を前に)逃げ出してしまわないか」を知ろうとしている、そんな想いの吐露です。
歌詞冒頭から〈傘を差すのは嫌なんだ〉と記されていますが、何も〈僕〉は単に雨が嫌いな訳ではありません。あくまで「〈ルール〉がある(それを自分が貫く)」ために敷いたものであり、もっと言えば、内容に関わらず〈困難〉が〈僕〉の目の前にあればいいのです。
更には、その〈ルール〉自体が直接〈困難〉でもないように思います。それを踏まえた上で〈僕〉の置かれている状況がそれに当てはまるのではないでしょうか。
その「状況」とはBメロに記されています。これらの言葉は、周囲の人々が〈僕〉に向けて無碍に放っているものです。
〈僕〉への尊重の欠片もない、どうにも無責任な言葉ばかりを続けます。〈協調性〉を強いるそれは、欅坂46の『サイレントマジョリティー』や『黒い羊』なんかも想起します。
これは単に、今までと違う行動を取り始めた〈僕〉に対して周囲が理解を示さない、ということではないでしょう。〈協調性〉を賛美しながら〈僕〉をそこに取り込もうとしていた「環境」や「社会」そのものがそこにあります。
それこそ『サイレントマジョリティー』にも描かれていたシチュエーションです。
しかし〈僕〉は逃げないし折れません。あくまで貫き通すそのスタンスを声高に言い放ちます。
この構成がテクニカルでもあります。1番2番ともBメロはあれらの言葉が並ぶなか、続くサビで綴られる〈僕〉の言葉が、まるでガツンとそこに言い返しているようです。
思えば、〈雨〉や〈傘〉は(歌詞の物語の中で)実際に取り扱っている天気・道具ということだけではないでしょう。それは上記した〈僕〉を取り巻く「環境」や「社会」そのものを示すメタファーでもあります。
そうであれば一層〈僕〉の姿が頼もしく思えます。
そのような〈僕〉の姿が記された『My rule』ですが、表題曲として対の存在である『いつかできるから今日できる』の内容がまた、込められた意味合いとして2曲間で重なるようでもあり、あるいは『My rule』の〈僕〉へのメッセージとしても受け取ることが出来ます。
更に『いつかできるから今日できる』はBメロに以下のように書かれています。
この楽曲で背中を押されている〈君〉は、チャレンジに一歩踏み出し始めていました。そんな〈君〉を応援すべく向けられた『いつかできるから今日できる』は、『My rule』と同様「貫く」ことを提示しています。
〈僕〉の姿を通して魅せる『My rule』と、〈君〉へ贈る言葉が綴られた『いつかできるから今日できる』とでアプローチの仕方は違いますが、何を謳っているかという本質的な部分は共通するように思います。
逆に言えば、ストレートな「応援」色を持った『いつかできるから今日できる』のように、『My rule』もまた「応援する言葉」としての意味を持っています。
〈僕〉の状況に理解を深めることで、『My rule』からより強くメッセージを受け取ることができるのではないでしょうか。
泣いたっていいじゃないか?(乃木坂46)
17thシングルにカップリング収録され、『全国高等学校クイズ選手権』の応援ソングとしても使用された『泣いたっていいじゃないか?』です。
『高校生クイズ』に使用されていつつ、歌詞をいざ読んでみると大人っぽさがあります。〈大人になったって〉と記されているのでそれは間違いないようですが、それ以上に「疲れ」「憂い」「夢破れた」ニュアンスがあり、少なくともキラキラしたメッセージソングとは言えないものです。
〈上京〉した背景も含みつつ進む物語は、どこか物悲しい雰囲気で「気付かないうちにいつの間にか変わってしまったもの」を追っています。
それは、そのものの変化もそうですが、自分も(振り替えている当時より)変わってしまった故でもあります。人の気持ちもまた然りです。
Aメロ後半それぞれに現れるモチーフの対比が秀逸です。それは「憧れていた都会」の象徴と「親しんできた田舎」の象徴として相反しますが、それでいてどちらも「抱いていた夢」を表すものでもあります。
同時に「あの頃の〈僕〉」の映像も引き出して広がりを持たせてくれますが、後に続く言葉でやるせなく覆されてしまい、現在の〈僕〉の状況に帰結されてゆきます。
そして綴られるサビの言葉が、そんな〈僕〉を肯定してくれます。いえ、厳密には肯定という表現ではふさわしくないかもしれませんが、〈僕〉の抱いたやるせなさをやるせなさのまま抱いていて良い、と優しく示しています。
この楽曲が収録されたシングルの表題曲『逃げ水』は、当時加入仕立ての3期生メンバーをWセンターとしていましたが、その歌詞はむしろ既在籍メンバーに宛てられたものとして読める内容でした。
グループ活動を続けてきて、その存在感も拡大して各々役割も果たしつつ、個々人が持っていた〈あの夢〉を「見失っていないか?」「後回しにしてしまっていないか?」と問い掛ける言葉のようです。
先頭に立つ3期生メンバー2人は、その真っ新な姿を先輩たちに見せつけて〈青春時代のように〉キラキラした気持ちを思い起こさせる役割であったのかもしれません。
そんな『逃げ水』に並ぶ『泣いたっていいじゃないか?』です。大人びた憂いがありのままに綴られたこの楽曲もまた、既在籍メンバーに宛てられたものであるように思えてきます。
それこそ当時にしても1・2期生は多くが成人以上の年齢を迎えて〈大人〉になり、当時夢を抱いて〈上京〉してきたことや、活動の中で〈現実〉を知ったであろう背景も重なります。
もちろん『泣いたっていいじゃないか?』自体は架空の物語ですから、メンバー達がそれそのままに憂いややるせなさを感じているとまでは言えません。
それでも、時に気を張ったり何かを我慢したり、思うようにいかなかったり、気苦労が絶えないであろう場面は少なくないでしょう。乃木坂46と言うグループの活動や存在感が増していくにつれ、それも同様に増すことも想像できます。
そんなメンバー達に贈るメッセージとして、この楽曲がとても優しく作用するように思います。一時的にでも肩の荷を下ろしてひと息吐くゆとりをくれるものです。
「憂い」や「やるせなさ」という言葉を上では用いましたが、楽曲のメッセージそのものはタイトルのフレーズに集約されています。
そのようにして、メンバー達が自分の物語として『泣いたっていいじゃないか?』を届けてくれるからこそ、聴き手一人ひとりもまた、等しくこの楽曲に身を委ねられるように思います。
皆一人の人間なんだから〈たまには泣いたっていいじゃないか?〉とお互いに励まし合うような効果をもたらしてくれる、そんな楽曲です。
誰がその鐘を鳴らすのか?(欅坂46)
欅坂46の実質的なラストシングルである『誰がその鐘を鳴らすのか?』です。冒頭の語りがまずもって印象的であり、この楽曲の「何たるか」を示しているパートであるように思います。
そこに込められたメッセージは欅坂46らしいものなように思えつつ、これまでとは少々アプローチが違うように思います。
気になるのがタイトルにも用いられている〈鐘〉です。それは一つの〈愛〉のメッセージとして〈鳴らす〉ものであると、1Aメロ、2Aメロから理解してよさそうです。
一方、続く〈愛の救世主〉とのワードがどこか皮肉じみた響きを持っているようでもあります。具体的な誰ということではなく、それは〈鐘〉にまつわる〈責任〉を象徴する立場を示した言葉です。
〈愛〉が〈届く〉のはいいが、じゃあ一体〈誰がその鐘を鳴らすのか?〉。
この楽曲がまず示すテーマは、タイトルやサビにある通り『誰がその鐘を鳴らすのか?』です。「その役割を担うのは誰だ」と問うものです。その状況は「椅子取りゲーム」のようでも「立候補待ち」のようでもあります。
歌詞中では〈主導権〉〈責任〉とも言い換えられています。一人だけが担うその役割は、勝ち取ろうと争うものでもあれば、押し付け合うものでもあると記されています。
『誰がその鐘を鳴らすんだ?』は当初9thシングルに収録予定で製作されながら、平手友梨奈さんがグループを離脱した以後、「センター不在」の形で配信限定リリースされました。
そうした背景を当てはめても解釈しうる楽曲ではあります。「では誰がその位置に立つのか?」とストーリーに当て込んだものとして読むことが可能です。その回答としての「センター不在」はある意味美談かもしれません。
しかし本質はそこではないように思います。そこで冒頭の語りと、それに重なるDメロの歌詞を取り上げます。
これまでの歌詞で描かれていた〈主導権〉の奪い合い、〈責任〉の押し付け合い、(むしろ、「それが行れているんだろう」と囃し立てる御託、)それを示す言葉としての〈喧騒〉〈ノイズ〉です。
脊髄反射でああだのこうだの言う(書き込む)風潮に、〈口を噤んで〉じっくり時間をかけて考えてみてはどうかと提示します。
そのことを踏まえて、改めて「センター不在」を回答であるとみれば、随分と痛快なものに感じられます。誰か一人が負う〈主導権〉〈責任〉なんて蓋を開けてみれば存在しなかった、という態度なわけです。
この回答は、単に肩透かしとして用意されたものではありません。LIVEで披露されたパフォーマンスからして言うまでもないことですが、歌詞の中でもまたそれが示されています。
最後のサビを迎える時、それが自問自答されています。
時が来れば〈鐘〉が鳴る、そんなことを期待しているような〈僕〉の言葉が綴られています。
直後、それは一体〈誰が〉やるのか?と容赦なく問われます。ひとりでにでもなく人の手によってでもなく、待っているだけで〈鳴る〉はずのない〈鐘〉を、じゃあ〈誰が〉と。
あくまでこのやり取りは「自問自答」であるように思います。自身の内々で行われた「じゃあ〈誰が〉」という問いの回答は言うまでもありません。
そんな自問自答を、メンバー皆が行ったうえでの以下のラインです。
実に頼もしい宣言です。〈喧噪〉に左右されず押し潰されないその強い気持ちによって、自分が、皆が〈鳴らす〉んだと示されます。
そんな『誰がその鐘を鳴らすのか?』は、『サイレントマジョリティー』や『不協和音』を感じつつも、少し違う気がしてなりません。むしろそれらで〈群れ〉〈大きなその力〉だとされていた勢力に、〈自分の話じゃなく他人の話聞いてみてほしい〉と働きかけているように見えます。
歌詞に書かれた限りでは結論は出せませんが、1stから一貫したスタンスを持ちつつも、欅坂46の歩みの終盤で辿り着いた「センター不在」という回答が、この楽曲のメッセージに寄与しているのかもしれません。
冷たい水の中(乃木坂46)
堀未央奈さんのグループ卒業に際し、『冷たい水の中』はソロ曲として用意されました。そんな経緯が物語るように、この曲には堀さんの決意のような言葉が綴られています。
これまでいた環境=乃木坂46を示すであろう〈ぬるま湯〉という表現があります。決して、本当の意味で刺激や変化が見込めないという事ではないでしょう。逆に、堀さんが「やり切った」境地にいるからこその言葉であろうと想像できます。
居心地良いからこそ「いつまでも在籍できてしまう」とは、これまで卒業していったメンバーが口を揃えて言ってきました。だからこその〈冷たい水〉に身を置く宣言です。
そしてその〈冷たい水の中〉でこそ、生の実感を得られると言います。
既存の比喩である〈ぬるま湯〉から転じて用いられた「過酷さ」を表す言葉が、範囲を拡大して「体温」「脈」との生命の表現に行き着く、秀逸な発想による言葉遣いと言えます。
また、その「水」をそれぞれ〈井戸水〉〈水道水〉と表現していることもテクニカルです。自然の中で湧いた生水と、人為的に処理された浄水という、「水」を表す言葉の中で比喩を使い分けています。
加えて、〈朝〉の比喩も用いられています。「冷たい水で顔を洗う」なんて様子も思い浮かびますが、「卒業」「旅立ち」を新たなる目覚めとも表しています(心地よい居場所を「夢」と称するなら、絶妙に呼応しています)。
このような言葉が綴られているのが『冷たい水の中』という楽曲でした。それはおおよそ堀さんの言葉と取ってよさそうですが、幾分シビアな表現が多くも感じます。
それこそ〈ぬるま湯〉〈冷たい水の中〉の対比など、最後のソロ曲ながら「別れ」や「旅立ち」よりも「覚悟」の比重が大きく思えます。前後の卒業メンバーのソロ曲と比較しても、そこには温度差とがあるようにも見えます。
個々のメンバーのイメージが反映されているようでありつつ、どこまで意図的なものかは図りかねますが、ともかく割と顕著に違いがあると言ってよさそうです。
加入間もない頃から2期生の先頭に立ち、新参者としての顔役としての役割を背負ってきた堀さんが、否応なく身に着けた「強さ」の表れたものだと解釈してもいいかもしれません。
ある意味で「人の為に動いてきた」部分が大いにある堀さんが、「自分の事だけを考えられるようになった」からこその言葉だと思うと、その覚悟や強さはむしろこちらとしては安心するものでもあります。
堀さんの言葉と言えば、それが綴られていること自体がまた嬉しく思えます。
彼女の代名詞と言える楽曲『バレッタ』は、初めて参加した(センターを務めた)曲でありながら、その歌詞は(堀さんに当たる)〈君〉のことを遠巻きに見る〈僕〉の言葉が記されていました。
『バレッタ』が描いていたのは「〈君〉の存在に動揺し翻弄される〈僕〉」であり、それが表しているのは「新参者が介入してきた乃木坂46」でした。もっと言えば、その変化によって広がる不穏さや懐疑的な視線です。
つまり「視線にさらされる立場」として堀さんに白羽の矢が立っての、センターという立ち位置でした。だからこそ『バレッタ』には堀さんの言葉は綴られていません。
そんな始まりを経て、最後に堀さん自身の言葉として受け取れる歌詞が綴られた楽曲が生み出されたことが、何より嬉しいのです。
再生する細胞(欅坂46)
『夏の花は向日葵だけじゃない』に引き続き、次シングルに収録された今泉佑唯さんのソロ曲『再生する細胞』です。
あちらは〈向日葵〉に活動休止(から復帰)した彼女の存在を重ね、ファンなど彼女を思う立場から見た、代えの効かない大切さや尊さをラブソングに乗せて謳ったものと取れる歌詞でした。
一方『再生する細胞』は、今泉さんのストーリーに重ねた内容であるのは同様ながら、描かれているのは今泉さんの主観と言ってよさそうです。活動に復帰したことを「会う」「愛する」と言い換えた、再起を誓う言葉としてサビの歌詞を読むことができます。
その「再起」を表す表現としての〈細胞〉です。身体を構成する要素が入れ替わってゆく様を比喩に用いた、「生まれ変わった自分」「今までとは違う自分」を当てはめた歌詞と言えます。
〈傷つきながら〉〈再生する〉と続けることで、上記の比喩に膝を折りかけた経験も取り込んだうえで〈細胞〉との表現を軸に置いた歌詞が綴られています。
2番サビも同様です。
こちらの方が「膝を折りかけた~」の意味が現れていると言えそうです。くじけかけてしまったたけど、でもやっぱり、という想いを〈死んだ細胞は生まれ変わる〉のフレーズで言い表しています。
その流れを以て〈再生する〉〈生まれ変わる〉というフレーズがゴールとして機能します。一度〈諦めていたのに〉、その〈後悔の淵で〉、落ち着いた時間の中で〈何が一番大切なのか〉気付き、得たその想いを〈今ならもう素直に言える〉と宣言しています。
単に「目覚めた」「生まれ変わった」と表現するのではなく、〈細胞が再生する〉としているのがまた秀逸です。「テセウスの船」よろしく、身体を構成する要素が全て新しいものに換わった今、それはまさに「今までとは違う自分」なのです。
見てくれは同じでも、全く別物へと変わったことをひとつの希望として謳っていると言えます。
〈細胞〉のモチーフは歌詞全体でも重要度が高いものとされているようです。随所に〈欠片〉〈幾粒の〉と粒子をイメージするワードがサブリミナル的に配置されており、〈細胞〉を違和感なく伝える役割を果たしています。
また、1サビの〈もう一度~〉の箇所と、2サビの〈もう二度と~〉の箇所が、絶妙に対比されています。似た言い回しながら、それぞれ「現在の(確信的な)想い」←→「少し前の(今は思い直した)想い」として示す意味が異なり、結果として現在の想いである1サビ〈もう一度会いたい/もう一度愛したい〉がいっそう強調されています。
だからこそ、大サビの歌詞が1サビの繰り返しであることが更に意味を持ちます。
一度は希望を見失いかけるような状態にあった今泉さんですが、それでも、と立ち上がったのです。つまりそれが現れた歌詞がこそ最新の心境であるのです。再起を誓う言葉としての1サビを最後に改めて繰り返すことで、「これから」についての彼女の宣言として機能するのです。
何の因果か今泉さんが歩んだ道は、グループの卒業後から現在にかけて、決して平坦でなかったと言えるものでした。
2022年現在は、彼女を支える人に囲まれながら、再び表舞台で文字通り「主役」として活躍する姿を見せてくれています。
〈人は誰も傷つきながら強くなっていく〉と言葉通りに当てはめて語ってしまうのはいくらなんても野暮ですが、しかし〈愛の細胞が再生する〉とのフレーズだけは変わらず今泉さんの強さを示す意味を持ち続けているように思います。
もう歌われることはなくなってしまったかもしれませんが、彼女のひとつのテーマソングとして、『再生する細胞』がどこかで鳴り続けることを願います。
『こんなに美しい月の夜を君は知らない』、幻冬舎より発売中。
その6。
明日飲むコーヒーを少し良いやつにしたい。良かったら↓。