『LAST NUMBER (feat.中元日芽香(乃木坂46))』/乃木坂46の歌詞について考える・番外編
去る2020年5月5~7日の三日間に行われた『「真夏の全国ツアー2017 FINAL! IN TOKYO DOME」特別配信』こと#おうちでドーム。公式Twitterでのメンバーによる実況や、#ドームでおつまみもあり、大変楽しい催しでしたね。
さてそんな2017年に行われた東京ドームLiveのトピックとして見逃せないのは、この東京ドームを最後のライブ出演に、グループから卒業していった伊藤万理華・中元日芽香の二人について。
やはり映像を観ると色々と込み上げてくるものでして。3日目の#おうちでドームを観終えてから、『はじまりか、』や『LAST NUMBER』を聴いちゃったり浸っちゃったりなんかして。
していると、『LAST NUMBER』の歌詞が内容が良いのはもちろんのこと、なるほど面白い構造をしているなと思いまして。
ということで、乃木坂46の楽曲ではありませんが、縁ある一曲として今回はRADIO FISHさんの『LAST NUMBER (feat.中元日芽香(乃木坂46))』について書いていきますよ。
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歌っているのはご存知の通り、中元日芽香(以下ひめたん)、オリエンタルラジオ・中田氏(以下中田さん)、同・藤森慎吾氏(以下藤森さん)の3名。ユニゾンで歌うパートはなく、それぞれが単独で歌うパートを順に回す形となっている。
歌詞を見てみると、全体はもちろんひめたんの卒業を題目にした内容になっているが、それぞれのボーカルを担当するパートの歌詞をよく見て(聴いて)みると、歌っている人からの視点で語られているような歌詞になっていると思った。
そしてまた、その視点の向きが絶妙に異なる。そこにも歌い手それぞれの人物像が見え隠れしていて、大変味があると思った。なのでそれを伝えたいと思った。
というわけで、早速順に歌詞を見ていこう。歌い出しはひめたんが担当している。
<ラジオ><日曜日>というキーワードから、ここで描かれているのは『らじらー!サンデー』の風景であることは言うまでもない。この曲を歌う3人は、かつてこの番組のパーソナリティを共に務めていた。
後半のフレーズは、その放送を通して交流する、ラジオに出演する<私>であるひめたんから聴き手側の<あなた>であるリスナー(=ファン)へと向けられた言葉だと、まずは考えることが出来る。
しかし「メッセージ」というよりは、状況を切り取っているような表現である。だからここは、ひめたんが自分自身のことを回想し、その状況や環境そのものを語っているのだと捉えられる。
つまり、ここではひめたん視点での内省的な描写がなされている。
続くパートを担当するのは中田さん。であるが、この歌詞は引き続きひめたんの事を歌っているように取れる。
番組にレギュラー出演が決まった当初はアンダーメンバーとしての活動が多かった彼女。まさに<うまくいかないとき>も<報われずに落ち込>んでしまうこともあっただろう。
それでいて<分かち合って前向いて/ずっと歩いてきた日々>というフレーズには『らじらー』で紡がれたひめたんとオリラジの関係が描かれている。
だからおそらくここは「(彼女の)うまくいかなかったことも、落ち込んだことも、(僕たちと)分かち合ってきた」という中田さんの言葉であるように思う。
少し引きの第三者視点から俯瞰的に見た、ひめたん(とオリエンタルラジオの関係)を歌っていると言える。ある種、冷静な視点であり、中田さんの人物像とも符合する。
そして続く藤森さんが担当するフレーズ。<一人ではないことを忘れないでいて>という言い方からしても、ひめたん"への"言葉であることは明白である。
少しずつ上昇していくメロディラインは感情の昂ぶりをまさしく表しているようだが、この歌詞も「置いていかれる側」であった藤森さんの言葉と見ると非常に腑に落ちる。<寂しさ感じたとしても>というフレーズは、実のところ自身が強く寂しさを感じている裏返しのようでもある。
ひめたんが出演した最後の『らじらー!サンデー』での彼の涙も思い出されるが、比較的冷静であった中田さんのパートと比べ、より当人の感情が強く現れているパートと言える。
そしてサビの歌詞。ここもまた歌唱はひめたんが担当しているのだが、ここを歌い出しと同じく彼女の言葉であると解釈すると、どこか違和感があるように思う。
これも冒頭で<あなた>に向けての言葉を発していた<私>であるひめたんの言葉としてしまうと、前半部はその<終わり>をやけに惜しんでいるようである。跡を濁すことなく卒業していった彼女の言葉とはとても思えないのだ。
むしろこれは別れを惜しみ過ぎてしまう(そして今なお思い出してしまう)こちら側、ファン側の言葉のようである。いやむしろ、ここはそうであるとしたい。
歌詞というものにおいて、「視点変更」や「ミスリード」という要素は一つの手法としてある(誰かしらが”歌う”からこそ、より利く手法である)。
加えて言うなら、このパートの後ろで流れているコーラスが歌うフレーズは<I will miss you>。訳すると「寂しくなる」という表現であり、「miss you」という言葉からも"失った"感情が現れており、ますます去る側の言葉でもないように思える。
だからこの一連は、ファン側の言葉であるはずだ。ひめたんの卒業を惜しむあまり言えないでいた彼女への感謝を代弁してくれている(そして、否応にも前へ進ませる)歌詞である、と読み解ける。
これはひめたんが歌っていながら、旅立つ彼女へ向けた<ありがとう>である、と出来るのだ。
またそうなってくると、冒頭のひめたんのパートもまた踏み込んで考えることが出来る。聴き手であるこちら側の言葉ではないかとも思えてくる。
というフレーズからは、パーソナリティ側というより、スピーカーを前にしてラジオを聴いている様子が想像できる。
続く<あなた>と<私>は入れ替えて考えても成り立つものであるし、彼女を想う気持ちを踏まえれば、その"繋がっている感覚"については、むしろこちら側が感じているものとした方がしっくりくる気さえする。
そう考えると、この曲は『らじらー!サンデー』を聴いているリスナーのモノローグから始まり、そしてパーソナリティである彼女への気持ちを露わにするところまで繋がっていく……と言えそうである。
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2番の歌詞を挙げてみる。そこには、ひめたんが一度グループ活動を休止し、そして活動を再開した時のことが切り取られている。
ここの読み解きは1番ほど複雑ではない。より素直に、彼女自身の言葉であり、またその心情が現れたものと理解できる。
グループ活動や『らじらー』出演の復帰を前にしたひめたんの心情が綴られているようである。それでいて、状況を切り取るような表現は1番と共通する。
中田さんのパートもまた同様にひめたんの復帰を切り取っている。こちらも1番に引き続き、自らの心情というより、冷静に引いて俯瞰で見た彼女の様子を描いている。
明確なワードとして彼主観の言葉は出てこないが、ひめたんが休業を発表した際に中田さんが強く発した「中元は戻ってくる。そして、僕たちは待っている」という言葉が思い起こされるものであり、想いが現れていることは間違いないはずだ。
特に近くにいた彼だからこそ、ひめたんの想いや<勇気を振り絞って>という内心を語ることが出来たと言える。
ここもまた先の藤森さんパートと同様である。休業、そして卒業と実際の時系列を端的に切り取っている分、より彼の心情が鮮明に現れているようでもある。
<一人ではないことを忘れないでいて>という同じフレーズをここでも用いていることが、更にその印象を強める。彼女にも自分自身にも<一人ではないこと>を伝えているようであり、上でも使われた「寂しさ」がいっそう現れている。
また先述したように、徐々に上がっていくメロディが歌い手の感情を示すものと機能しているため、やはり直接的に内心が現れたものとしてこの箇所を受け取ってしまう。
そしてサビ。ここは絶妙に誰の視点であるとも解釈できるつくりである。1番を踏まえてファン側の言葉と出来なくもないところだが、素直に読み解けばひめたんの言葉と言えそうだ。
決して順風満帆とは言えなかった彼女のアイドル人生、しかし振り返れば楽しい思い出を思い返してしまう。そして、旅立っていく。
乃木坂46の一つの哲学である『悲しみの忘れ方』を思い出させるフレーズであり、また敢えて意地悪く考えれば「こちら側が望む」彼女の心情でもある。きっと楽しい思い出ばかりを振り返ってくれているだろう、という。
それは<きっとまた会える>という願望にも繋がっているが、つい希望的観測してしまうファンの内心を的確に指摘しているとも言える。
(いやむしろ、その事に自覚的である、というつもりでいなければ余りにストレートに刺さりすぎてしまう。それへの防衛本能であるのかもしれない。)
しかし、彼女は確かに笑顔を見せてグループを旅立っていったはずである。
だから以下の歌詞は素直に信じたいと思うのだ。
<さようなら>という言葉が別れを現実的にさせて、ことのほか辛い気持ちにもなるが、その分、これ以前の言葉もまた現実であると理解できると思える。
彼女が、坂道を登ってきた一人として自らを誇りに思い、確かに綺麗な景色に辿り着いたのだと思いたい。この箇所が、単にファンを安心させるための言葉であったり、あるいは歌詞としてただ言っているわけではないのだという確信を持ちたい。
逆説的ではあるが、確かな別れがあるからこその確かな言葉がこれであると、そんな信頼をこのフレーズに込めてみたい。
そして最後の歌詞もまた同様である。
その終わり、旅立ちは否応にも訪れるものである。やけに冷静に彼女は語るが、しかしそれは上で書いたように確かな現実であるからだ。
だからこそ、また最後の<ありがとう>が響く。それは最初のサビ部分が"こちら側"の言葉であることが確かならば、それと対比する形で呼応して、むしろ彼女の想いが鮮明になる。
別れを惜しみながらも、最後に<ありがとう>と伝えることが出来た。そしてその言葉に対して、彼女がまた<ありがとう>と返してくれているのだ。
そうであるなら、僅かながら救われると言うもの。冒頭の<あなたと私の周波数を合わせて/気持ちを通わせた>というフレーズともリンクする、ラジオが繋いだ確かな交流である。
こうして、全体に渡ってパートに分ける形でそれぞれの視点が混在しており、またその心情を露わにしながらも、彼女への想いと希望を鮮明にしてくれたのが『LAST NUMBER』と言えそうだ。
オリエンタルラジオ両名のパートもまた、彼ら視点の言葉でありながら、ファンの見てきたものや想いと重なる。
乃木坂46の楽曲ではなく、「RADIO FISH feat.中元日芽香」だからこそ完成した、彼女の最後を彩る楽曲なのだ。
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ひとまず全体を攫ったので終わりとしたい。
この曲は「作詞:RADIO FISH」となっており、ひめたんのパートは彼女自身の言葉であるようで、真の意味で本人が語った言葉ではない。
しかし、『らじらー!サンデー』を通して形成された彼女らの関係性は確かなものであるはずだ。その事が、この曲の歌詞の信頼性をより引き上げるように思う。
<あなたと私の周波数を合わせて/気持ちを通わせた><どうして過去は眩しいの/あなたに見せたい自分になるよ>といった言葉を、『LAST NUMBER』という曲を通して「彼女の言葉」として聞かせてくれて感謝、と言うか。ある意味で、求めていたことを限りなく現実として実現してくれたようにも思う。
より近くで彼女を見てきたオリエンタルラジオだからこそ、きっと彼女の真意を理解してくれている。そんな想いで、この曲で綴られた言葉を信じたい。
むしろ、ひめたん卒業を情景としてただ切り取っても曲にしてもいいものを、こんなにも多重に読み解ける歌詞に完成されているとは!こちらの気持ちも余さず代弁してくれてしまっては、それこそ信頼感も上がるというもの。
現在の星野みなみ・大園桃子のそれぞれとお送りしていただいている『らじらー!サンデー』も、他のメンバーでは成り立たない最高のラジオになっている。間もなくひめたんが出演していた期間に追いつくほどだ。
引き続き、乃木坂46のお兄ちゃんの一組としてどうぞよろしくお願いいたします。
という感じで以上。