⑥『こんなに美しい月の夜を君は知らない』歌詞解説募集キャンペーン投稿録
これのその5。
(その6)
※当初、作成順に公開していた内容を『こんなに~』収録順に改めました。
ないものねだり(乃木坂46)
橋本奈々未さんが乃木坂46を卒業する際のソロ曲として用意されたのがこの『ないものねだり』でした。
ご本人も楽曲について「自分の考え方がそのまま歌詞になっているよう」といった旨の発言をしており、まさに彼女をそのまま題材にしたような楽曲と言えるように思います。
まずもって歌い出しの歌詞があまりにも美しいです。室内の描写が映像的に動きながら、寝床で横になって文庫を開く〈私〉の様子が綴られています。それは本人の視界の情報であることが伝わるとともに、そのまま〈~いたい〉との主観の言葉に自然と映っていきます。
続くAメロ後半がまた暖かくもどこか切ない印象を受けます。
〈ゆっくりと過ぎる時〉のフレーズが、穏やかなジャズのような曲調と呼応しています。〈私〉の心情も想像させながら、そんな読書にふける時間が〈慌ただしい日常〉との対比であるとしています。
〈一人でいるのが好きになった〉と零すことから、〈小説〉を読むのは〈慌ただしい日常〉から逃れる術であるようにも取れます。逃れる、とまで表現するのは極端かもしれませんが、しかしそれを踏まえているからこそ大切にしている時間であると読むことが出来るフレーズです。
サビを一旦飛ばして、その後半に注目すると、同じような心境を読み取ることが出来るように思います。
〈自由があればいい〉とは「自由」が無い場合があるからこその言葉と理解できます。それらからひと時解放されたのが、ここで描かれている〈ベッドの中〉にいる時間であると取れると言えないでしょうか。
その上でのサビの歌詞です。ここまでの読み解きを踏まえるとしたら、「ひと時解放された時間」を〈目の前にあるこの幸せ〉としています。それさえあれば〈もう十分でしょう?〉と浮かぶ疑問を口にしています。
それさえあればいい、これ以上は望まない、という慎ましい言葉です。
この『ないものねだり』という楽曲は、橋本奈々未さんの当て書き的に作られたソロ曲ですから、どうしても彼女のストーリーやキャラクターへお重なりを見出さずにはいられません。
〈目の前にあるこの幸せ〉〈もう十分〉といった言葉は、ここまでの歌詞だけを追ってみれば〈好きな小説〉を読む〈一人〉の時間と解釈できそうですが(歌詞中では実際そう表されていますが)、それよりも、もっと想像の余地はあります。
〈慌ただしい日常〉とも対比されていますが、このフレーズからは、思わず今までの乃木坂46としての忙しなかったアイドル活動を想起してしまいます。その上で〈一人でいるのとが好きになった〉と言われると、なんだか寂しい想いをしてしまいそうです。
しかし実際は以下のように綴られています。
〈今持ってる全て〉なのです。野暮に一つ一つ挙げることはしませんが、それこそ〈慌ただしい日常〉(や、その中で交わされたこと)もきっとこの言葉は含むのでしょう。
それが〈私の全てでいい〉し、夢から覚めても〈このままでいい〉と言うのです。
身もフタもないことを言えば、この歌詞は橋本さん本人が書いたものではなく、本人の心からの言葉そのものかと言うと、そうではありません。
しかし、橋本さんがこの歌詞、この楽曲を真っ直ぐに受け入れて歌っていたのだとしたら、それは限りなく真実を写したものになっているように思います。
「今ある全てに満足しているから、それ以上ないものねだりしない」というこの楽曲に込められた言葉が橋本さんの心を通して発されているのです。
そうであるならば、〈ないものねだり〉という言葉は何より彼女の道程を肯定するものであるように思います。
悲しみの忘れ方(乃木坂46)
2015年に公開されたドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』の主題歌として使用された『悲しみの忘れ方』は、この当時の乃木坂46として集大成的な楽曲と言えます。
乃木坂46のメッセージとして中心的に位置する『君の名は希望』が元々ありました。グループの方向性を決定付けた楽曲と言えますが、今回の『悲しみの忘れ方』はそれが内々に向いたものと言えるように思います。
正確に言い表すならば、「誰かに寄り添って救う」楽曲である『悲しみの忘れ方』を乃木坂メンバーが発信すると同時に、その受け手が他でもない乃木坂メンバーであるのです。
それが結果として、それぞれの聴き手が共感でき、また救われるものとして成立し、『君の名は希望』の同じ道筋にある楽曲として完成されています。
その最たるものとしてサビの歌詞があります。
「そばにいる」とは意味の広い表現ですが、ここではそもそもとして限りなく言葉通りの意味を持っています。要は、悩んでいる乃木坂メンバーたる〈私〉のそばに、仲間である乃木坂メンバーがいるのです。
楽曲発表時点の2015年において、冒頭では〈あの頃〉を振り返ります。
『乃木坂ってどこ?』よろしく、〈今いる場所も分からずに〉と零しています。彼女達の現在地を問う言葉は、最初期の楽曲『乃木坂の詩』にも綴られていました。
また、ここまでの苦難の道程を象徴する意味を持った〈坂〉との言葉があります。
こちらも同様に『乃木坂の詩』で示されていました。未来の予言とまで言うかはさて置き、同じ意味合いを持つ言葉として使われています。
『悲しみの忘れ方』において「道程」を表す表現は多々用いられます。特に、同じメロディのパートで記されたAメロ後半の箇所は「自分一人で歩く」「皆と共に歩く」描写として対比されているようで美しいです。その上で「一人よりも皆と」と示されています。
歌詞の本質としてはサビの〈私だけじゃないんだ〉が最も重要です。上で挙げたパートもそうですが、2Bメロなど、「仲間」「グループ」であることが強調されています。
そんな「誰かと共にいること」の尊さが示された上での、サビの歌詞です。
〈私だけじゃないんだ〉、〈みんな同じだ〉、だからこそ「分かち合う」ことが出来る、そう言っているように思います。預かり知らぬところのどこかの誰かだということではありません。〈そばにいつだって誰かいる〉なのです。
例え〈悲しみ〉に暮れていても〈そばにいつだって誰かいる〉、そんな考え方をもってすれば、〈いいこと〉とは、他者がもたらすもの、あるいは他者と共に作るものです。
個の〈悲しみ〉を、共に〈いいこと〉で塗り替える、ワントゥワンで進むゆったりしたペースですが、そんな歩みさえも尊いのだと『悲しみの忘れ方』は言っているのではないでしょうか。
〈私だけじゃないんだ〉とは「君だけじゃない」ということです。それは「共感」であり、まさに「寄り添う」行為に他ならないでしょう。乃木坂46メンバーによって発せられる〈そばにいつだって誰かいる〉というメッセージが何より頼もしいものであると、乃木坂46のメンバー達の歩みがこそ、それを真に迫るメッセージとして伝えてくれているのです。
メンバー同士の相互関係がこの楽曲にも含まれているからこそ、〈迷ってる〉聴き手のことさえも、自然と巻き込んでくれているように思います。
一番好きだとみんなに言っていた小説のタイトルを思い出せない(日向坂46)
日向坂46・上村ひなのさんのソロ曲である『一番好きだとみんなに言っていた小説のタイトルを思い出せない』。この曲は乃木坂46の26thシングル『僕は僕を好きになる』に近しいことが語られているように思います。
端的に表せば、それは「自分を覆っていた殻を取り払い、本当の自分と向き合う」といったようなことです。
「自ら殻を纏っていた」という前提の部分が特に共通しており、また、それを良しとはせず心機一転して一歩を踏み出すところで物語が締めくくられる構造も一致しています。
『僕が僕を好きになる』で語られる内容は、サビの歌詞で象徴的にまとめられています。
「周囲との不和を感じていた〈僕〉は、環境に原因があるのではなく、他でもない自分自身で壁を作り距離を置いていた」「それは自己嫌悪に起因していた、だからまず〈僕は僕を好きになる〉ことから始める(始めたい)」といった内容です。
〈僕は僕を好きになる〉とはタイトルと一致する歌詞ですが、これは曲の最後の最後にのみ現れる、楽曲の締めくくりとなるフレーズでした。その配置が「新たな一歩を踏み出した」ところで幕を閉じるような演出として機能しており、印象的かつ非常に秀逸です。
『一番好きだとみんなに言っていた小説のタイトルを思い出せない』もまた、同様の構造を持っています。
この楽曲の最後に配置されたフレーズは、サビにも含まれ冒頭から用いられた〈好きじゃないんだ〉です。『僕は僕を』と異なるのは、「最後にのみ現れる」訳ではないという点です。
しかし、ここで用いられる〈好きじゃないんだ〉は、曲の流れを通して、冒頭から意味合いが変化しています。
冒頭では〈僕〉の諦念のようなニュアンスが感じ取れます。「タイトルを思い出せないということは、(一番好きだと思っていたけど)それほど好きじゃなかったという事だな」と、自分の情熱の無さにガッカリしたような、深く考えず「好き」と言ってしまう軽薄さに嫌気が刺したような、自分に対して「期待外れ」のように感じてしまったことが〈好きじゃないんだ〉に現れているように思います。
乃木坂46をはじめ坂道グループを「好き」と言っているファンの一人としては、「好きだと思っていたけど、それほど好きじゃないのかもしれない」と考えてしまう悩み方は、どこか共感できるように思います。自分の中の情熱を疑い、計ってしまう行為をついやってしまうことが確かにあります。
しかし、『一番好きだとみんなに言っていた小説のタイトルを思い出せない』の〈僕〉は、その気持ちが実際に仮初のものであったと気付き始めます。「その小説を『一番好き』と言っている自分」になりたくて言っていただけのことであったと自覚が芽生えるのです。
ここで現れる〈見栄〉〈理想の僕〉というワードが答えと言っても良いでしょう。「理想の自分を見せたい、周りから見られたい」という想いを、〈小説〉を通して〈僕〉は演出していました。ありていに言えば「センスの誇示」を行っていたわけです。
〈小説〉そのものが実在しないことや、自覚症状すらなかったこともまた示唆されますが、そうした自覚が明確になってきた頃、序盤にも用いられていたサビの歌詞の意味合いが変わってきます。
1サビも同様の歌詞でしたが、そこでは「(その小説が)好きじゃないだけ」という思い出せない事への諦めを感じるフレーズとして機能していました。
しかし大サビに当たる場面でこの歌詞が再度用いられた頃には、ここまで描かれた〈僕〉の変化を踏まえ、「(その小説を『一番好き』と言っている自分が)そんな好きじゃないだけ」という意味合いで取れるようになっています。
まだ確信の持てない「多分」が頭についていますが、そこから〈僕〉は自問自答を重ねます。
そして辿り着いた答えが以下の通りです。
「その小説を『一番好き』と言っている自分」を〈好きじゃないんだ〉と確信をもって言い切ることが出来るのです。これは当初思い描いていた「理想の自分」との決別に他なりません。
取り繕い、仮初の姿を演じてきた〈僕〉でしたが、それを切り捨て、今まで殻で覆って隠していた本当の自分とこれから向き合うのです。
そうして〈僕は僕を好きになる〉のごとき宣言を掲げた〈僕〉は、「本当の自分」として第一歩を踏み出すのではないでしょうか。
隙間(乃木坂46)
『他の星から』歌唱メンバーによるユニット曲第3弾の『隙間』です。ポップなサウンドであった前2曲と比べ、寂しさを感じる歌詞が美しいメロディを盛り立てる、乃木坂46のナンバーでも屈指の名曲だと思います。個人的には、2017年のアンダーライブ九州シリーズでの伊藤かりんさん・斎藤ちはるさんのデュエットによる披露が印象深いです。
その歌詞やタイトルで記される〈隙間〉とは、「余裕」や「ゆとり」、あるいは「ひと息つく」などと意味する言葉として用いられています。
大人になったこと、都会での暮らし、そういった変化する日々の中に〈隙間がもっとほしい〉と零している歌詞です(歌唱メンバー達の、地方から上京してきた経歴や成人して間もない年代であることと重ねられているようにも思います)。
1番と2番とで、〈灯り〉の描写の対比を通して〈隙間〉や「余裕」を求める〈僕〉の感情が示されています。同時に、今暮らしている〈都会〉と慣れ親しんでいた故郷の対比でもあり、そこに存在する「変化した」ことも含む描写です。
2番のこのパートには〈だから僕らは夕焼けを覚えているんだ〉と続き、またDメロでは〈数多の星たち〉とあります。〈灯り〉は「街灯」ですが、一連の流れで見れば、むしろ「人工的な光」と「自然の光」との対比が為されているようです。
「変化」について〈僕〉は以下のように言います。
〈子どもの頃〉と現在とで異なる暮らしの中で、急かすように瞬く〈灯り〉がそれを強調し、〈僕〉のことを漠然とした不安で襲います。ギチギチに詰め込んで突進していくような日々は、〈あんまり器用じゃない〉〈僕〉にとっては〈息苦しくなる〉ものです。
だからこそ〈隙間を大事にして/ゆっくり生きていきたい〉と願うのです。〈ずっと同じが良いのに〉とは文字通りの意味では決してないでしょう。白か黒かでパキッと変化するのではなく、ゆったりとグラデーションするように自然と移り変わるペースを望む言葉です。
決して不安の吐露だけに終始している訳ではないのです。諸行無常を受け入れたうえで、その中で起きる微細な移ろいを見逃さないよう生きたいのだと表明している歌詞です。
大まかにまとめてしまうなら、『隙間』のメッセージとは「前の向き方」の形を提示するものなのではないかと思います。命を燃やすような生き方がある一方で、こういうローペースなやり方もあって良いと思うよ、と声を掛けるものです。
乃木坂46なんて、まさに忙しない日々を送っていることと思いますが、楽曲を通してメンバーの口から〈隙間がもっとほしい〉と放たれることは、一種のアンチテーゼのようでもあります。
それこそ同ユニットの前曲『僕が行かなきゃ誰が行くんだ?』は、熱く前向きなエネルギーを感じさせる一方、性急な印象を受けるとも言える楽曲でした。
この楽曲が間違いということではありません。そもそものメッセージは異なる訳ですから、2曲は同時に両立するものです。
むしろ両立するという事実があれば、それで良いのだと思います。『僕が行かなきゃ誰が行くんだ?』があって『隙間』があって、時々によってペースの取り方や考え方が異なるものだ、と同じメンバー達がどちらもを歌うことで広く肯定しているようです。
『他の星から』はまた複雑な解釈が必要そうなのでここでは割愛します。楽観的なような厭世的なような、哲学にさえ感じられるその歌詞は、少なくとも『僕が行かなきゃ誰が行くんだ?』とも『隙間』とも重ならないものです。
ともかく、『隙間』は肩の荷を降ろすようなメッセージを与えてくれる楽曲です。それは心の中の焦りや不安からひと時解放される夜をもたらしてくれるものであると思います。
ゆっくりと咲く花(乃木坂46)
乃木坂46・2期生楽曲『ゆっくりと咲く花』は、2020年3月に実施された配信イベント『幻の2期生ライブ』に際して製作・初披露されました。2期生単体ライブがこれまでに無く初の実施だったことや、佐々木琴子さんの卒業を控えたタイミングだったこともあり、メモリアルな意味が込められた歌詞であると言えます。
もっと言えば、2期生の彼女達の「不遇」と揶揄されることが多くあった背景なども落とし込まれているように思います。
加入後のお披露目にしても正規メンバーの昇格にしてもタイミングがまばらで、グループ全体としても成長期だった分、その歩みは速いものではなく、共同体としてひとまとまりに動く機会にも恵まれませんでした。
2期生全員が初めてチームに揃ったのは、皮肉にも全員がアンダーとなったタイミングでした。13thシングルのアンダー楽曲『嫉妬の権利』は、以後も2期生のドラマを彩るものとして象徴的に披露されています。
そういう意味では『ゆっくりと咲く花』も複雑なニュアンスを孕んでいると言えなくない気もしつつ、ほぼ同時期に製作された『アナスターシャ』と共に、加入から長らく時を経て産み出された2期生の代表曲として愛されているように思います(それまでの2期生曲がやたらユニークなものばかりであったことにも起因しています)。
そんな『ゆっくりと咲く花』は、(タイトルからして)2期生の歩みを踏まえた内容と言えるように思いますが、個人的には『三番目の風』『4番目の光』を思い起こします。
数字も取り入れられた期別曲ですが、これらは3期生・4期生加入当時に用意された「メンバー自身」を謳った楽曲でした。
グループとして完成した状態の乃木坂46に加入するにあたり、誰かの代わりや真似ではなく唯一無二の存在になることを表明する『三番目の風』、憧れの対象として存在感が年々増した乃木坂46を〈光〉として、それを自分も獲得するんだ=同じ存在になるんだと願いに乗せて決意する『4番目の光』です。
上に書いたようにこの2曲には「(とりわけ加入当時の)メンバー自身」が投影され、「こういう存在になる」という宣言として機能している訳ですが、そこに『ゆっくりと咲く花』が並ぶように思います。もちろん加入のタイミングで作られてはいませんが、そのタイムラグも踏まえた内容になっているようにも思います。
綴られている歌詞は「悲痛」なように取れるものです。自分で自分を責めるような、自分の存在意義を見失っているような、そんな言葉が並びます。
これらがどこまで現実と重なるかはさておき、こうした受け手としても辛くなる言葉は後々に覆されます。覆されると言うよりは、そうであったかもしれないけど、時間を掛けて遂には意味や存在感を獲得した、と〈花〉の比喩をもって示しています。
「こういう存在になる」という宣言、その性質が『ゆっくりと咲く花』にもあるように思います。むしろ「なった」、あるいは「であった」と遡って出た結論のような描き方です。
3期生・4期生との違いとして、これらはグループの名前が既に大きかったからこそ「求められた」ことが描かれていたともいます。2期生は1期生と共にグループを育てている存在でした。そういう意味で、「独立したチーム・2期生」としてでなく「乃木坂46としての全体感」が先に立っていたのだと思います。
経験も積んで成熟し、後輩も入ったことで「2期生」という存在がひとまとまりのものとして問い直されたのがこのタイミングであったのではないでしょうか。
だからこそ(既に各々が個性を発揮して単独での活躍の幅を大いに広げていたからこそ)、いざ振り返ってみて「今はもうとっくに〈花〉は満開である」と堂々と宣言したのがこの楽曲であるように思います。
ファンや周囲の人々への目線も含まれていることが、加入すぐに作られた『三番目の風』『4番目の光』に無い『ゆっくりと咲く花』ならではの個性でもあります。
楽曲を発表した配信イベントから2022年現在までにかけて、2期生メンバーの旅立ちが怒涛に続いたわけですが、一つのピークであるタイミングに生まれたこの楽曲に、彼女達のヒストリーが凝縮されているように思います。
『こんなに美しい月の夜を君は知らない』、幻冬舎より発売中。
その7。