③『こんなに美しい月の夜を君は知らない』歌詞解説募集キャンペーン投稿録
これのその3。
(その2)
※当初、作成順に公開していた内容を『こんなに~』収録順に改めました。
キミガイナイ(欅坂46)
『キミガイナイ』は、1stシングル『サイレントマジョリティー』通常盤にひっそりと収められ、MVなども製作されておらず、あまり存在感のある楽曲とは言えません。
しかし、切なくもキャッチーなメロディとリリック、それを引き立てるメンバーの歌唱はいずれも強く支持されており、初期の欅坂46における「隠れた名曲」的なポジションにあります。
この楽曲の最も強いメッセージ、というよりも切に謳われているのは、曲中2度に渡って用いられいる以下のフレーズです。
この想いに至る前、〈君〉と〈僕〉の間で諍いがあったことが記されています。きっかけは〈些細なこと〉でありながら、2人は軋轢を解消できずにその場を別れました。〈僕〉は悶々とした気持ちを抱えたまま帰路に着きます。
部屋で一人思いに沈む〈僕〉です。答えを探って思案するというより、言葉にならない感覚が胸中でさまよい続けているような、そんな様子です。
夜通しかけても晴れない憂い事は、冒頭で挙げたフレーズに行き着きますが、その時間経過の描写が鮮やかです。
薄ぼんやりとした夜、閉ざした部屋の深い闇、色を取り戻していく明け方の空と、流れるように風景が描写されます。そこには視覚情報だけでなく音や人の気配も記され、更に状況を鮮明にさせているのが秀逸です。
三字ごとに区切りながらぽつぽつと歌うメロディが、〈僕〉の静かにざわつく心情に重なるようにも思います。なおも湧き上がるその想いをぶつけるように荒れる様子も描かれます。
そうした逡巡を経たからこそ、以下のような答えを出すのです。
〈僕〉を苦しめるのは他でもなく、タイトルの通り「君がいない」こと自体でした。カタカナの無機質な表記によって、単に〈僕〉の気持ちが落ちているだけでなく、世界そのものが危うく揺らいでいるような印象を与えます。
楽曲を締めくくるのは上記一番下のフレーズですが、決して〈僕〉の苦しみのまま幕を閉じる訳ではないでしょう。
綴られる歌詞の物語に、順序のマジックが働いていますが、最終的に辿り着いたのは以下の心境です。
君が傍にいないと言う孤独を味わった〈僕〉は、眠れぬまま夜が明け迎えた〈今日〉を〈楽しい〉と言います。これは、実際のところどうなるかはこれから確かめる訳ですが、それを「楽しくなるに決まっている」と確信している言葉です。
もちろんそれには条件があります。〈君がいれば〉、です。前夜は〈2人意地張って/謝らずに〉別れてしまいましたが、上記の確信を持った〈僕〉が部屋を飛び出してどんな行動を取るかは言うまでもないでしょう。
『キミガイナイ』いう物語は、このような結末を迎えました。しんとした切なさが常に漂う楽曲ですが、〈僕〉の得た確信と行動を思うに、存外明るい未来が見えるように思います。
〈本当の孤独〉を示したことが歌詞の核ではありましたが、それと同時に「そうではなくなる術」をも提示しています。悲しみや切なさだけで終わらない、その先の希望を手触りよく伝えてくれる、素敵な楽曲であると思います。
月曜日の朝、スカートを切られた(欅坂46)
1stアルバムのリード曲として収録された『月曜日の朝、スカートを切られた』。ハードさを決定的に打ち出した4thシングル『不協和音』の後だけあって、こちらも歌詞の世界観にしてもサウンドにしてもシリアスな作風で統一されています。
そこに記されているのは、ざっくり「〈大人〉への反発」と読み解けます。もっと言えば「強いられる体制やルールへの反発」でしょう。
周囲を取り囲む〈作り笑いの教師〉〈幸せじゃない大人〉が並べるおべんちゃらや綺麗事に対し、〈私〉はクエスチョンを投げかけています。
直接言い返しているというより、内心で繰り返しているような印象を受けますが、そこには複雑な感情がひしめいているようです。
自分にも(言われている通りに進めば)待っているのであろう「未来」に、辟易しているような絶望しているような様子で、皮肉に満ちた鋭い言葉を零しています。
そんな〈大人〉に、〈私〉は危害を加えられる描写があります。
ここで言う〈大人〉とは、〈私〉を取り巻く社会全体、その空気自体としても良いのかもしれません。「スカートを切る」という行為・場面は一つのモチーフでもあり、それこそ〈友達を作りなさい/スポーツをやりなさい〉という言葉も〈私〉にとって同一の意味を持ちます。
上にも挙げた〈私〉による「反発」は、「"かわいそうな被害者"、"よくできた良い子"になってやるものか」とでも言うように、あくまで毅然とした(むしろピリピリした)態度として現れます。
むしろ、そうした〈大人〉の浅はかさに対して怒りや嘲笑を向けます。中途半端に生きて人に迷惑をかけるくらいならモブに徹していろと吐き捨てます。
そんな攻撃的な態度を取る〈私〉が描かれていますが、歌詞を読み進めてみると、この楽曲において「スカートを切る」という描写の持つ、もう一つの意味が浮かび上がってきます。
社会に取り込まれようと雁字搦めな様子の〈私〉でしたが、彼女が冷たい目を送っていた者たちもまた〈切られ〉ている存在であるのです。
〈教師〉が口にする〈見せかけの愛〉に順応できない〈私〉と同じように、それぞれがそれぞれの場所で〈見せかけ〉の某、〈嘘〉に追い詰められていると言うのです。
そして、それは歪んだ形で〈私〉にも伝わります。彼女の〈スカート〉を切った張本人もまた、彼女同様の〈孤独〉な「〈切られ〉ている存在」です。
その行為は、まるで存在証明のような意味を持って行われました。〈私〉に同調を向けるような、手招きするような、いっそう邪悪なものです。
しかし同時に、違う意味で〈私〉がゾッとした様子も垣間見えます。明確に示されてはいないためあくまで想像の範疇ですが、「あれに〈私〉もなるかもしれない」と共感に近いものを感じてしまったのではないでしょうか。
何か言いたげな〈したり顔〉から、何が言いたいかを感じ取ってしまったのかもしれません。想いを言い当てられてしまったのかもしれません。だからこそ〈あんたは私の何を知る?〉と、その手招きを咄嗟に跳ね除けたのです。
上に挙げた以下のフレーズは、〈私〉が吐き捨てた言葉でしたが、思いがけず〈私〉の身にも振りかかる可能性を持つ言葉になりました。
今のところ示されている限りの未来は、いずれにしても「死」が待っているものです。無論、それは言葉通りの意味ではなく「諦め」や「絶望」と言いかえらえるものです。
このような精神状態にあるのがこの楽曲の〈私〉でした。
一方、MVは『サイレントマジョリティー』の前夜を描いたものとされています。仮にそのような時系列を『月曜日の朝、スカートを切られた』の〈私〉が進むのなら、彼女は新たな未来に繋がる〈熱いもの〉を宿すのかもしれません。
サイレントマジョリティー(欅坂46)
『サイレントマジョリティー』と言えば、欅坂46の1stシングルにしてグループの指針を定めた、紛れもない代表曲です。
その後4th『不協和音』によってその方向性はより強固になったと言えますが、2nd、3rdでは道筋を探るように敢えて作風に幅を持たされていたと思えば、最初からその向かう先は示されていたとみて間違いないでしょう。
印象強いのは、やはりサビを始め多く綴られたメッセージ性強い言葉です。
そのエネルギッシュな言葉からは、最早そっと寄り添うとか背中を押すとかいうレベルではなく、奮い立てて拳を挙げさせるようなくらいのインパクトを感じます。掻き鳴らされるアコースティックギターと鋭いストリングスの音色、煽情的なハンドクラップが歌詞の持つシリアスさ・力強さを尚引き立てます。
歌詞にしても曲にしても、デビューシングルながら所謂"アイドルソングらしさ"とは程遠く、楽曲解禁直後から広く話題になっていたことを覚えています。
そんな『サイレントマジョリティー』で描かれているのは、ひとつの「抵抗」の様子です。主人公自身がそうしているというより、そのメッセージを〈君〉に対して投げかけています。
〈僕〉は〈大人たちに支配されるな〉と強く主張します。その〈大人たち〉、あるいは既に〈支配〉されている者たちを以下のように辛辣に語っています。
しかしこれは、実際に指導者や独裁者としての〈大人〉がいる、それに〈支配〉されている大勢の配下がいる、という話ではなく、あくまでメタファーとしてこのような風景(構図)を描いているように思います。
具体的な対象がいて、それに反抗せよということを『サイレントマジョリティー』が言いたい訳ではおそらくありません(そういう場合もあるでしょうが)。
全体をさらってみると、そのメッセージの核の部分は思いのほか優しく真摯なものです。「体制に抵抗しろ」「抗え」と煽り立てるのではなく、あくまで純粋に〈君〉を奮い立たせるものです。
〈夢〉という言葉が印象的です。
広く「虐げられている」「追い詰められている」よりも、「本来やりたいことが出来ない」「それを諦めざるを得ない」といった状況にある存在に対しての言葉のように取れます。
例えば「好きなことを仕事にしても上手くいくわけがない」とか、「どうせ出来っこないんだから安定した進路に進みなさい」とか、「言われた通りにすれば間違いないから」とか、そういった言葉や環境に対しての〈NO〉を『サイレントマジョリティー』は突きつけています。
そう考えると、この楽曲のメッセージはさわりだけの印象よりもずっと優しいものです。
そして以下のようにも言います。
「戦え」「抗え」ではなく、あくまで「選ぶ」「行動する」こと自体を促しています。むしろそれは「自分との戦い」と称されるものです。
そう整理してみると、この楽曲は軍歌のような方向で士気を上げさせるものではなく、純粋な「応援ソング」と言えるかもしれません。
その側面は元から汲み取ることは出来ましたが、苛烈なメッセージ性が先に立ってしまいがちでした。言葉に引っ張られて「大人vs子ども」「体制vs市民」の構図が伝わってしまっていたようにも思います。
しかし実際突き詰めてみれば、決して攻撃性に終始したものではありません。あくまで〈僕〉が〈君〉に対して純粋に「夢を諦めるな」「人の言葉に左右されるな」と言っているものであるように思います。
そのメッセージは奇しくも、同組織として活動していたけやき坂46(現・日向坂46)が後に発表する楽曲『青春の馬』にも似ています。
伝えようとするメッセージが根源的に共通していた、なんて見ることもできるかもしれませんが、それは後から語れるものではないので割愛します。
ともかく、『サイレントマジョリティー』を深く紐解いてみれば、それほどに純粋で熱い「応援」の言葉を放っている楽曲であったということをここで主張したいです。
黒い羊(欅坂46)
『黒い羊』という楽曲は、欅坂46の(他の楽曲における)「エピソード0」を描いたものだと捉えています。
9枚目のシングル曲ではありますが、歌詞の内容を見る限り、1st『サイレントマジョリティー』や4th『不協和音』、7th『アンビバレント』などと時系列で順番に並べた9段階目にあるようにはとても思えないからです。
むしろ、それらの楽曲の「芽生え」のような表現が見受けられます。『黒い羊』における〈僕〉が後に『サイマジョ』『不協和音』『アンビバレント』のような境地に至る、と捉えるほうが腑に落ちるのです。
例えば『サイマジョ』は、欅坂46のオーディション時のメンバー達の様子から着想を得て生まれた楽曲であると、以前に秋元先生は仰っていました。つまり『サイマジョ』はデビュー前後当時の欅坂46メンバーをリアルタイムに描いたもの、あるいはメンバーに託したものであると言えます。
そんな『サイマジョ』では以下のように示されています。
また、この楽曲から更にメッセージを深めた楽曲と言える『不協和音』には以下のようにあります。
いずれも「迎合しない」スタンスを感じさせます。周囲との不和や同調圧力に立ち向かい、自意識を保とうとする様子が描かれています。
『アンビバレント』は似たスタンスながら、余裕のある軽やかな様子です。
またこの様子はシングル表題曲に限らず、例えば4thシングルカップリング曲の『エキセントリック』にも通じています。
このように描かれきた〈僕〉が、その後に『黒い羊』のようになってしまうとは、あまりに考えにくいように思います。
むしろ、『黒い羊』では「周囲との不和」「同調圧力」の中に置かれている頃の〈僕〉が描かれているように思います。
そして同時に、それらに「迎合しないスタンス」の芽吹きのような、言ってしまえば『サイマジョ』や『不協和音』など上記の楽曲に後に至る片鱗と言えるフレーズが散りばめられています。
例えば、〈目配せしてる仲間には僕は厄介者でしかない〉〈真っ白な群れで悪目立ちしてる/自分だけが真っ黒な羊/と言ったって同じ色に染まりたくないんだ〉などの箇所です。
これらには、足並みを揃えず立ち向かう姿勢が垣間見えますが、どこか弱々しくもあり、強い姿勢を見せていた『不協和音』や『エキセントリック』の後の〈僕〉と考えるには、いささか不自然です。
時系列を逆に、この後に〈不協和音を僕は恐れたりしない〉〈I am eccentric/変わり者でいい〉といった確信に至ると考えた方が自然なように思います。
更に歴代楽曲と呼応する部分があります。
大サビを経たラストのパートは、弱々しかった〈僕〉の中で強い意志が育ち始め、次のステップへ進む序章のように読み取れます。
そこに記された〈自らの真実を捨て/白い羊のふりをする者よ〉、これは明らかに「物言わぬ多数派」=サイレントマジョリティーです。
その者たちに対して『黒い羊』における〈僕〉は〈指を差して笑うのか?〉と問い掛けますが、いずれ成長した〈僕〉は、今度は立ち向かうのではなく救おうと〈君は君らしく生きていく自由があるんだ〉〈誰もいない道を進むんだ〉〈Yesで良いのか?〉と声を掛けるのではないかと思います。
そうした境地に至った〈僕〉は、『サイマジョ』から更に突き詰めた強いメッセージとして『ガラスを割れ!』のような言葉をも掲げます。
このように、既存のいずれの楽曲も『黒い羊』の前よりも後の時系列にあるとした方が〈僕〉の成長譚として違和感なく見ることが出来るように思います。
9thシングルが8thまでの未来ではなく過去の「エピソード0」を描いた理由そのものについては、歌詞に描かれた範疇を超えた考察になりかねないので、今回は言及しません。
『黒い羊』が「エピソード0」であるという考察、いかがでしょうか。
エキセントリック(欅坂46)
『エキセントリック』は4thシングル『不協和音』にカップリング曲として収録されています。共にシングル表題曲候補であったという話もあり、それらしく2つの楽曲は近しいテーマを持っているように思います。
近しいことを訴えてはいますが、〈周り〉への強い対抗心を見せていた『不協和音』と比べ、『エキセントリック』はどちらかと言うとテンションが低く冷静で、歌詞中にもあるように〈うんざり〉して溜め息を吐いているような雰囲気です。
全体的には、対面して言い合っているというより、俯瞰で状況を見ているような印象です。『不協和音』は「自分対周囲」、『エキセントリック』は「自分から見て周囲」と整理できそうです。
そのような構図だからか、『エキセントリック』には「自分の主張」よりも「周囲を評する言葉」が主です。
思うにこれらは、直接口に出している言葉ではないでしょう。少なくとも〈僕は嫌だ〉と正面切って宣言している『不協和音』のようではありません。『エキセントリック』の方が「内面的」であると言えるように思います。
だからこそ、実は「変えていこう」という結論には至っていません。『サイレントマジョリティー』も〈君〉に対しての働きかけが多く描かれていましたが、『不協和音』もまた「今とは違う世界・未来」を見据えている部分がありました。
一方『エキセントリック』の〈僕〉は内省に向かっていると言うか、不安や弱気に陥っているような印象も受けます。
「自分を変える気はない」くらいの強さは持ち得ていますが、しかし掘り下げていくと「僕はおかしくないはずなのに」と歯噛みしている様子が描かれているように思います。
それもまた胸中で零すのみです。〈I am eccentric /変わり者で良い〉と開き直っているようで、その実「変わってる」「間違ってる」「普通じゃない」といった言葉に対して、「そんなことない」「〈僕〉にとってはこれが普通なんだ」と抗っているようです。
このようなどこか弱気な姿が、『エキセントリック』と『不協和音』の大きな違いと言えるでしょう。メッセージやスタンスは共通していながら、力強く立ち向かうあちらと違い、思い悩む様が多く見受けられるのが『エキセントリック』です。
この2曲の印象や意味合い、影響し方を、ざっくり分けてしまうことが出来てしまうように思います。
『不協和音』の〈僕〉は旗を振る先導者です。その背中を追い、追随したくなる存在です。〈僕は嫌だ〉に代表される強い態度やメッセージ性に魅せられてしまうものです。
『エキセントリック』はもっと独りぼっちです。MVでも机に突っ伏している姿が示されましたが、大勢の中にぽつんといて〈もう、そういうのうんざりなんだよ〉と内心で零している様に、思わず共感してしまいます。
そう分けてみれば、『エキセントリック』はより「寄り添ったもの」と言えるかもしれません。聴き手が「自分と同じ想いをしている人が描かれている」と感じられるのは、『不協和音』よりもこちらが当てはまるのではないでしょうか。
MVラストでの、水しぶきを浴びながら狂乱的に踊る、映画『台風クラブ』のオマージュと言われた描写もまたそれに沿うものなように思います。
あれは、訳もなく叫びたくなるような、 暴れたくなるような、行き場の無いフラストレーションを当てもなくぶち撒けた様です。
その感情は、エネルギーをきっちり闘いに向けられている『不協和音』よりも、幾分曖昧なものです。故に昇華し切れないものですが、だからこそ、ああいった形でドラッギーに発散できるのならしたくなるのも理解できます。
また、『台風クラブ』該当のシーンでは、わらべの『もしも明日が晴れならば』が歌われていました。〈もしも明日が晴れならば〉〈愛する人よ/そばにいて〉という歌詞が綴られていますが、どこか救いを求めているようなその言葉は、『エキセントリック』の〈僕〉にも重なるようにも思います。
『こんなに美しい月の夜を君は知らない』、幻冬舎より発売中。
その4。