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さようなら、全ての量産型リコ

2024年6月28日から放送が始まった『量産型リコ -最後のプラモ女子の人生組み立て記-』が、昨夜最終回を迎えた。

『最後の-』というだけあって、量産型リコシリーズ第3作にして最終作であり、つまりシリーズが完結を迎えたわけである。シリーズを愛し続けていた一人としてはとても寂しく、今回の主題歌『アイムホーム!』『ソライロ』を交互に聴いては泣いちゃいそうな日々である(最終回のEDでは完全に泣いた)。

イベント会社の窓際部署を舞台にした第1作、若者たちによるスタートアップ企業の様子を追った第2作と「お仕事ドラマ」の側面があったシリーズだが、今回は祖父の訃報をきっかけに家族が揃った「家族もの」「ホームドラマ」としての色が濃い作風であった。

これがまあ、とにかく『量産型リコ』にマッチしていた!

今シーズンは毎話「こういうこと!」「これが量産型リコなのよ!」と叫びながら(誇張表現)観てしまっていた。

最終回に前後して配信された、本作の企画・原案・プロデュースを務めた畑中翔太さんによるPodcastにて、畑中さんは以下のように話していた。『最後の-』を企画するにあたってこう考えていた、という話である。

「1が持ってた空気感をもう一度(半分)取り戻そう」
「もっともっと原点っぽい方にいってみたい(ことで定めたテーマが)『家族』と『田舎』」

はいカット!#61

もう、この言葉が答えのようなものだ。第1作にとことん魅了された身として感じていたことだが、第2作である『もう1人の-』は前作と比べてトーンが異なっており、第1作に感じていた「良さ」の部分とは少し違う軸を進む物語であった。ゆえに、面白い作品とは感じつつ、若干乗り切れなかったというのが正直なところだった。

しかしながら第3作は、作風なり撮り方なりはこれまたひと味もふた味も違ったのだが、終始「これは俺の愛した量産型リコだ!」「なんならもっと純度が高い!」と叫びながら(誇張表現)毎週を楽しんでいた。

では、じゃあその愛したそれっていうのは、何のどういうことなのか?

それは奇しくも第3作『最後の-』の最終回でようやく理解できた。ずっと感じていたことを、やっと言語化できた。では、まずはそれを一言でまとめてしまおう。

「『量産型リコ』ってプラモデルのようなドラマだな」と思った。

改めて言うと、『量産型リコ』は「プラモデル」を題材にしたドラマである。副題も『プラモ女子の人生組み立て記』であり、毎話のクライマックスとしてプラモデルの組み立てシーンがある。

しかしながら、個人的所感だが「プラモデルドラマ」ではなかったと感じていた。いや、プラモデルが重要なアイテムであったことは間違いないにしても、あくまで「お仕事ドラマ」や「ホームドラマ」であり、その主人公の趣味としてプラモデルがある、という塩梅だった。

プラモデルそのものや題材となる作品のオタク的知識を取り上げるにしても、補足情報にすぎず、そこの解説・紹介に長い時間を割くことは無い。

プラモ制作における「技術の習得」が主人公にとっての課題になることもなければ、完成したプラモデルをシミュレーターで動かして戦闘するわけでもない。実在の有名モデラ―が本人役で登場するとかもない。

いわゆる「趣味モノ作品」として、『ゆるキャン△』でキャンプを扱ったり、『ぼっち・ざ・ろっく!』でバンド活動を扱ったりするのとは、『量産型リコ』でのプラモデルの扱い方・立ち位置がだいぶ違っていたように思う。

『量産型リコ』は、プラモデルの組み立て作業そのものを通して得られるリラクゼーション体験を重要な要素の一つとして取り扱っていたように思う。

以前書いたnoteで「フロー」という心理学用語を取り上げたりもした。プラモデルを組み立てていくうちに没入して集中して、ストレスから解き放たれていく感覚。それを(体感する様を)度々描いている。

第2作『もう1人の-』1話では「集中することは脳に良い」と言われ、今回の第3作『最後の-』でも「集中する」という表現が何度か繰り返されたが、それはつまりこれのことなのだ。

仕事の中で、あるいは家族との関わり合いで、何らかの壁にぶつかるリコや仲間達。そんな時に矢島模型店の扉を叩けば、次のステップに進む「手立て」としてプラモデルが待っているのだ。

毎シーズン、話が進むにつれて、リコ自身がプラモを組み立てる場面よりも、周囲の人々を模型店に連れて行く(プラモを作らせる)場面が増えていく。それは、リコがすでにプラモデル製作を通じて心が解き放たれているがゆえに、同じ体験を仲間や家族とも分かち合おうと思ってのことだ。

特に印象深かったのは第1作の8話。部署解散の危機が訪れる中、リコの先輩・中野なかのは一人奮闘した結果が裏目に出て、このままでは大損害に繋がる更なる危機を呼び込んでしまう。

全部一人で責任を負おうとする中野の様子を察したリコは、彼女を矢島模型店へ連れていく。少々抵抗しつつもリコと共に『ULTRAMAN』を完成させた中野は、後輩であるリコや真司しんじに「助けて」と本心を打ち明けるのだ。プラモデル製作を通じて、閉じていた心の扉を開け放つのである。

第3作『最後の-』8話でも、リコの妹・高校生の香絵かえは、映像制作の才能がありながら、その道に進むべきか否か、進路選択に思い悩んでいた。専門学校の資料を取り寄せる様子などからその心境を察したリコに連れられて、香絵は矢島模型店を訪れ、愛する映画作品『ゴジラ×メカゴジラ』に登場する「3式機龍」を組み立てる。

更には「3式機龍」を用いたミニチュア映像を撮影、その体験を経て「好きなものを仕事にしなくてよい」という結論に達し、映像制作の道には進まないことを決意する。

どちらも、プラモデルを作る体験を通して、凝り固まっていた心が解れ、止めてしまっていた歩みを再び進めることが出来るようになった様が描かれている。

もちろん、共同作業によって後輩の頼れる一面を垣間見たとか、愛する作品の登場機体を自身の手で組み立てることでその愛を再確認したとか、悩みを脱する要素としてフローとは異なる体験も発生している。

が、これはその時々の「構図」に由来するものでもあるので、やはり組み立て作業そのものを通して得られるリラクゼーション体験は、皆が実感する縦軸的な要素として常に存在しているように思う。

それこそ題材作品のテーマや機体の設定を各エピソードと重ねることも多くありつつ(チームが一つになるための「研修」として3機一組で活躍した「ドム」を製作したり)(異なる主張のぶつかり合いを『コードギアス』を通じて理解したり)、それだけに偏らず、あくまで「プラモデル(製作)」そのものが生む体験を重視している。

そうした姿勢が『量産型リコ』からは見受けられる。

だからこそ「お仕事ドラマ」「ホームドラマ」としてのエピソードの中でプラモデルが鍵として機能する。『量産型リコ』とはそういう「プラモデルドラマ」であったのだ。

と、ここまでは第1作を観た時点で理解していたことだ。上で書いた「『量産型リコ』ってプラモデルのようなドラマだな」についてはまだ全然触れていないのである。

「プラモデル」そのものが生む体験として、既に挙げた「フロー」を含むリラクゼーション体験のほかにも、重要な要素として描いていることがあった。そしてそれは、凄く作品全体のテーマ性とぴったり重なるものでもあった。第3作『最後の-』が「家族もの」であったことで、それを純度高く感じ取ることが出来たのだ。

問うべきは「プラモデルってそもそもどういう物か?」ということである。

「組み立てるもの」であるが、いや、これは「プラモデルって"何をする"ものか?」の回答である。「そもそも」で言うならば「分解されているもの」ではなかろうか。

「プラモデル」がどういう玩具か、「組み立て」とはどういうことかというと、スーパー戦隊のロボのように、独立した車や飛行機、時には動物型のメカが5体集合すると無敵のロボが完成する、そういったものではない。

モビルスーツにせよスポーツカーにせよ、城にせよ美少女キャラクターにせよ、すべて先に「完成形としての姿」がある。それをあえて細かくばらばらなパーツに分けてしまっているもの。それが「プラモデル」なはずだ。ばらばらなパーツに分かれてしまっているから「じゃあ組み立てよう」という行動に進む。

そして、ばらばらな状態から組み立てる、そのプロセスを経ると「中身を知る」ことが可能になる。作中でも、それを目的に置いたエピソードが度々あった。

第1作2話で「ザ・モデルカー ニッサンR35GT-R」を組み立てた際には、内部のエンジンやサスの挙動、運転席の細部までを知ることとなった(職場でのプレゼンに活きた)。第3作『最後の-』3話ではリアルな標本としても用いることが出来る「プラノサウルス ティラノサウルス」の組み立てを通じて、恐竜の骨格のつくりを学ぶことが出来た(子どもの興味が深まった)。完成品のフィギュアでは困難であろう「つくりを知る」「そのモデルについて理解を深める」体験が、プラモデルでは可能なのだ。

ばらばらであるからこそ、自分の手で組み立てて、理解を深めることが出来る。無論、愛着も湧く。これこそ「プラモデル」というものが持つひとつの性質である。

そしてこのプラモデルの性質こそを、キャラクター同士のやり取りを描く上での作劇に落とし込んでいる。それが『量産型リコ』という作品であり、「プラモデルらしさ」だと感じた。

『量産型リコ』では全作通して「相手のことを理解する」場面が多く描かれた。時には衝突したり、元々かかわりが薄かったりする相手を、1話通して理解し、関係性が深まる。第1作3話の真司しんじ、第4話の雉村きじむらさん、第2作『もう1人の-』第3話の熊本くまもとさん、第4話の後田うしろださん等のエピソードが特に当てはまるだろう。

「1軒付き合ってよ」なんて言って矢島模型店へと連れ込み、ともにプラモデルを組み立てる。一緒になって夢中になり集中する、あるいは題材作品のテーマに触れて考えを改める、そういった様子が度々描かれる。場合によっては、リコが見せる手慣れた様子や手際の良さから、その相手が彼女のことを見直したりもする。プラモデル(製作)を通して互いの理解が深まり、絆が生まれるのだ。

単に共同作業で仲良くなったということなようで、いや、これは共同作業の有無自体が本質ではない。互いの内側を知ることそのものをプラモデルというメタファーを通して描き、そして説得力を持たせている。

キャラクター達の「プラモデルへ向ける目線」が、組み立てる過程で度々描かれているは周知の通り。パーツひとつひとつの細かさに驚いたり、緻密な色分けやディテールをしげしげと観察したり、頭や腕の形が見えてきた時に喜びの色を見せたり、可動の柔軟さや仕組みを楽しんだり、そこで当初は興味のなかったプラモデル(やその題材)に、次第に愛着を覚え、感動していくのだ。

ひいてはこれは、人と人とのコミュニケーションで生まれるものと同じだと言いたい。「この人、こんな一面があるんだ」「こういう事が好きなんだ」「こうい表情をするんだ」とひとつひとつ知ることで次第に関係性が深まっていく。第1作5話で、ミニ四駆を前に少年のようなテンションを見せる大石おおいしさんの様子に、リコは少し驚きつつキュンとしていた。こういう事である。

「"それ"への理解を深めるツール」としてのプラモデルがもたらすマジックとして、かかわりあう相手への理解が深まっていく。

組み立て作業という「体験」を通じて得られる効果をドラマ展開に活かしつつ、プラモデルを「メタファー」としてその本質的な部分も落とし込む。

こういった構造を以て『量産型リコ』は真摯な「プラモデルドラマ」なのである。

っていうような構造でドラマを作るとした時のテーマや舞台設定として、「家族」はあまりにもふさわしいのだ。もっとも原始的なコミュニティであり、何ならコミュニティであることが前提になってしまい、実は理解の深まりが追い付いていないこともあるものだ。

実家を離れて長い堅物な長女、生意気で頭の回転が速い三女、甘える対象とばかり思っていた母、そういえばあまりよくわからない父、優しい祖父。そして、いつものほほんとして何も考えていないし皆からもそう思われている次女・リコ。

いかにもな構図の中で宙ぶらりんな存在としての次女・リコを主人公とした「家族もの」「ホームドラマ」として描かれた第3作『最後の-』は、畑中さんの言った通りに、かなり原点的であり、それはもはや第1作さえも超えてしまっているように感じた。

1から知っていき他人から仲間になっていくのとは違う、「わかっているようでわかっていない相手」への理解を深めていく作劇が「家族もの」としてとにかく優れていた。

「家族愛」というものを、当然あるものとして扱うペラペラな物語ではなく、「わかっているつもりになっていたからこそ改めて確認する」という作業が、各エピソードやその際のプラモデルの組み立てを通して行われている。かつ、父母姉妹そしてリコ自身が成長するからこそ、より愛しく大切な存在であると実感できる。

それはつまり「形のないものを形にする」作業であり、プラモデルそのものだ。そのプロセスを経て相手への理解を深めることで、妹の悩みに寄り添い、姉の葛藤を見守り、父との距離が縮まり、母の推し活事情を支えることにつながるのだ。

そして何より、ラストに辿り着く決着が実に地に足の着いた結論。温泉開発に端を発した立ち退き問題を、最終的には受け入れ、「実家」が無くなるのだ。

「家族って場所じゃない」とはリコの最終話での言葉だ。実家(という場所)を守ることが家族を繋ぎ止めることではない、ここに集まることが家族の証ではないと言うのだ。

ひいては、「ばらばらであること」をネガティブとしていないのだ。集まっても家族。離れても家族。いや、家族だけではない。

思えば、第1作からこうした帰結を常に描いていた。第1作ではリコらの所属するイベント3部は奮闘の末に解散が決まる。第2作『もう1人の-』では社長だったリコは会社を離れることを決意する。

とりわけ、第1作の最終話でのリコの長台詞がすべてを物語っていて秀逸だ。涙を流す与田ちゃんの顔の大胆なアップの長回しという撮り方含め、シリーズ内外通しても群を抜いた珠玉の名シーンである。

ここ最近、仕事やプラモデルを通して皆さんとの距離が縮まって、あぁこんな顔してたんだとか、ちゃんと笑ったり困ったり、意外と真面目だったり、諦め悪かったり、知らなかった一面をたくさん知ることが出来て……私、思ってた以上に、この3部に、自分の生活に、愛着が湧いてたんです

『量産型リコ -プラモ女子の人生組み立て記-』10話

仲間や家族のことを理解し、強く抱いた愛着は、ばらばらになったとしても消えることは無い。いやむしろ、だからこそばらばらになる事が出来る。『量産型リコ』という作品は、常にそういった結論に辿り着いている。

「ばらばらでも良いんだ」というメッセージが、ばらばらである事が一つのアイデンティティである「プラモデル」を用いた作品で発していることの、なんと素晴らしいことか! なんなら、収まりが良すぎるくらい!

プラモデルは、組み上げて完成したガンダムの姿でも、箱をスコ~と開けた(ご開帳!)ばかりのランナーの状態でも、どちらも指して「プラモデル」と呼ぶことが出来る。

ばらばらでも、家族は家族で、仲間は仲間だ。奇しくもというか、狙い通りというか、『量産型リコ』とはそういった帰結を迎える物語であり、そういったメッセージを受け取ってしまえる。

第3作『最後の-』最終話で、やっとそのことを理解し、そして遡って過去2作への愛着が尚更強くなってしまったのだ。

さすがに長くなりすぎたので、ここら辺で終わりとする。

こと第3作『最後の-』の良い部分として、ここまで書いたテーマ性以外にも、田舎というロケーションの素晴らしさと、それによって導かれる画一つ一つの良さ、相変わらず最高なセリフ回し、他のドラマではなかなか見られない構図やカット割り、与田ちゃんの衣装が常にダラダラのTシャツだった等、あまりにも膨大にあったのに、全然触れられなかった。

何よりマルチバース設定に触れられなかった。「最後の⇔最初の」は「3といったらドラクエ3」的なエッセンスくらいだと思いきや、シリーズが完結した今となっては、むしろ希望として機能してくれている。

ドラマとしては放送は終わったがこの世界のどこかで物語が続いているかもしれない……と思わせてくれる作品はとても好きだ。作品と現実がやんわり地続きであるこの手触りは、視聴者としては希望というほかないのである。

ドラマ『量産型リコ』はただのフィクションで、リコもやっさんもただの空想かもしれない。でも信じたい。彼らはきっといると――。

僕たちのこの世界にも、今にもあの角を曲がれば、矢島模型店が現れる気がするでしょ。

ほら!今にも

何の関係も文脈もないパロディを入れてしまうのは悪い癖である。

第3作『最後の-』への唯一の不満は、中野さんとちえみちゃんが出なかったこと。いろいろ事情があるだろうが、期待はしてた! が、まあしゃーない!

畑中翔太さんそしてBABEL LABELさんは『量産型リコ』だけでなく『お耳に合いましたら。』、『旅するサンドイッチ』、『真相は耳の中』、『ポケットに冒険をつめこんで』など、乃木坂チームとのタッグも多く、そして何より各作品とても質が高いので、今後も期待でいっぱいである。

新たな作品ドラマ。世界の新たな創生。ネオンジェネシス。

取り急ぎのタイトル回収である。

以上。


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春
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