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垂れ流し弔いーばぁちゃんー

今日、一周忌が終わった。
この1年経たないほどの中で、あんなに不安定だった気持ちも数ヶ月経ったら落ち着いた。生きていくなかで忘れていくことは健全でいるためには大切だと感じる。ただ、薄情だなと思う自分もいる。

寂しいな、と思って泣いた。
コロナに入って会えなくなってからの想い出があまりない。一人暮らしの背中を押してくれたのはお祖母ちゃんだけだった。それはとても強く残っている。身近な人が亡くなると、いつだってそばにいて欲しいという気持ちが溢れて、この先叶わないことで寂しく、辛くなってしまう。でも、生きてる時の姿勢、死人はよく喋ることも知っている。仕草とか、生き様とか、考え方とか、いつのまにか染み込むこともある。そうやって、残してくれたものも沢山あるからどうにか悲しみに暮れないでいることもできている。

それでも、今回お経が始まった時に反射的に「勝手に供養するんじゃねぇ!」って思っていた。弔うことの重要性と、それでもまだ往かないでって気持ちが綱引きしてる。自己矛盾が激しいけど、綱引きさせなければいいのか。どっちも自己主張するからキツイんだ。どちらの主張も双方に押し付けないで、共存することはきっとできるはず。

法事中、結構泣きじゃくっていたのだけれど、その後の親族との食事ではお酒飲んで少し笑っていた。(というか、トンチンカンな間違えして「春、節炸裂だね!」と笑われていたのだが。)
そうやって、哀しみを忘れていく、寂しさを忘れていくのかな。それはとても自然なことに様にも思える。ただ、1日の中で泣いたり笑ったり情緒が揺れて、これまた 「その程度の寂しさなんだ?白状だな。」 と思ってしまう自分もいて。私自身が、忘れないことが愛情だと思っていてるのに、それでも忘れてしまうからなのかな。

自分を責める自分がいつも何処かにいる。
忘れてしまうこと、日常でも沢山あるのにね。
それらの全てに罪の意識を持っている必要はない。
ただ、「しょうがない」という言葉で片付けたくないので誰か言葉を下さい。

今は、自分にたまに席を作ってやることで、しっかりとあなたを見つめることができれば、きっとそれでいいんだと思えている。

なんとか進めそうです。

勝手に供養すんな!という気持ちも、それでも少しずつ葬ることも、どちらも抱きしめて。
どうか胸の奥に挿して?


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