野球のまち は、新野・桑野・那賀川。
「野球のまち阿南」といわれるが、そもそも阿南市という括りは広すぎるのではないか。具体的に「野球のまち」の中心部といえる地域は新野・桑野・那賀川ではないだろうか。その根拠を述べたい。
甲子園出場にみる中心部
阿南市で一番最初に甲子園に出場したのは旧新野高校である。平成4年(1992年)春、平成8年(1996年)夏と、春夏ともに阿南における甲子園出場の元祖だ。
2度いずれも甲子園常連の強豪校である横浜(神奈川)、明徳義塾(高知)を破ったほか、平成8年(1996年)には快進撃が「ミラクル新野」と例えられた(参考:徳島新聞2012/7/11『聖地再び '12高校野球徳島大会 新野 タケノコ打線で旋風』)。
新野の注目すべきは、「タケノコ打線」と名付けられた強力打線。当時の阿南市の代表的な特産物が、そのまま名となっている点は、当時の阿南市において野球文化とはすなわち、新野町の独占状態であったことを示す。
徳島新聞平成24年(2012年)7月11日記事『聖地再び '12高校野球徳島大会 新野 タケノコ打線で旋風』では、「2度の甲子園出場に野球の盛んな新野町は町を挙げて新野ナインを応援」と記されている。
阿南市で初めて「野球のまち」の名を冠した組織「野球のまち推進協議会」が設立されたのは平成19年(2007年)6月であるが、その5年後の記事においても、記者目線で平成4~平成8年(1992~1996年)ごろは、阿南市全体ではなく新野町を特筆して野球が盛んであると認識されていたことが分かる。
後援会にはOBから多くの寄付金が寄せられ、平成4年(1992年)の出場時に購入した野球部のバスは現役だとしている。
2度の新野の甲子園出場以後、平成31年(2019年)の富岡西や、令和3年(2021年)の阿南光で甲子園出場が決まるたび、それぞれのOBらによる後援会が発足し、寄付が集まり、「町を挙げて応援」的な表現が紙面を踊り、新野と同じ光景が再現される。
こうした野球応援文化も阿南市においては新野町が元祖といえるだろう。
阿南市内では新野以降、平成31年(2019年)に富岡西高校が「21世紀枠」として春の甲子園出場を挟み、令和3年(2021年)に阿南光高校が夏の甲子園に出場した。
令和3年の阿南光高校については、平成4年(1992年)に旧新野高校を阿南市初の甲子園出場に導いた監督と同じ中山寿人氏である(参考:徳島新聞2021/9/16『選手ファースト最後まで 阿南光・中山監督 来春に教職引退』)。
阿南光高校は旧新野高校と旧阿南工業高校が統合して発足したが、令和3年(2021年)の阿南光としての初の甲子園出場は、実質的に新野系の文化の延長上の成果といえるだろう。
長野県阿南町新野地区との交流
平成4年(1992年)の新野の甲子園出場のさい、同名の長野県阿南町の新野(にいの)少年野球クラブが祝電を送ったことをきっかけとして、両市町の交流が始まった(参考:徳島新聞2016/6/11『同じ自治体名が縁で交流 長野・阿南町の福祉施設訪問 あす ABO60メンバーら』)。
平成10年(1998年)には、阿南市新野小学校と阿南町新野小学校との交流が始まる(参考:徳島新聞1998/7/2『徳島県阿南市・新野小 長野県阿南町新野小 児童ら交流始める 同名が縁 手紙で自己紹介』)。
平成17年(2005年)には、当時の岩浅嘉仁阿南市長が阿南町を訪問(徳島新聞2005/11/17『阿南市長 長野・阿南町をあす表敬訪問 進行深め交流も』)。
平成18年(2006年)には、当時の小林謙三阿南町長が阿南市を訪問(参考:徳島新聞2006/4/15『「阿南同士親交を」 長野・阿南町長ら 岩浅市長を訪問 町の文化を紹介』)。
平成26年(2014年)には阿南市加茂谷地区での水害に対し、阿南町は見舞金を贈った。
長野県阿南町との交流は、阿南市の岩浅嘉仁市政下で「野球のまち」の名が使われだす平成19年(2007年)直前に再活性化しているが、もともとはそれよりも15年前の平成4年(1992年)の旧新野高校・新野地域の成果に端を発した交流だ。
また、後述の旧那賀川町によるモンゴルとの国際野球交流が、長野県新野町との交流スタートとほぼ同じ平成3年(1991年)スタートとされるため、野球にちなむ域外交流でみると那賀川・新野が2大原点といえる。
今後の甲子園出場の価値
以上の通り、阿南市における甲子園出場の原点であり中心部は、新野地域といえるだろう。今後、富岡西高校などの新野地域以外・新野系以外の高校が、なんど甲子園に出場したとしても、その立場が更新されたといえるかは疑問だ。
高校の統合整理が進んで高校の数が少なくなり、富岡町付近に集中しているため、平成4年(1992年)や平成8年(1996年)の頃のような、新野による甲子園出場と同じほどの希少性を見いだすのは、もはや困難だからだ。
平成31年(2019年)の富岡西の甲子園出場は、平成30年(2018年)4月に2高校を統合した阿南光高校発足以後の出場だ。
今後の甲子園出場を、その高校が所在する小さい地域単位(富岡町など)の独自性・地域力の成果であるとみなす言論には、かつてほどの説得力はないと言っていいだろう。
また行政や報道機関が今後、単に甲子園に多く出場したということをもって、”全国に名の通る、野球のまち” の成果であるかのように安易に結びつけて発信することは注意が必要だ。
全国の甲子園常連校を有する多くの地域が「野球のまち」ということになり、説得力を失うからだ。
作品ロケ地にみる中心部
映画・ドラマ作品のロケ地でみる中心部はどこか。
瀬戸内少年野球団
阿久悠原作による野球をテーマとした映画『瀬戸内少年野球団』。終戦直後の淡路島の小学校で、美しい島の四季の移ろいとともに、野球を教える教師と児童のふれあいが描かれる。出演は郷ひろみ、夏目雅子、渡辺謙、島田紳助、伊丹十三ら。
そのエンドロールには、「協力 阿南市 新野小学校 新野中学校」の文字が流れる。
新野ロケは昭和59年(1984年)4月。珍しくなっていた木造校舎が残る新野が選ばれ、徳島市内からも見物人が集まった。校舎は新野町内で切り出された木を使っていたとされる(出典:朝日新聞徳島版2009/4/2『四国あちこち探訪 市立新野小学校 映画ロケに地元興奮』)。
2018年3月には、市が新野小学校に同映画の記念碑を設置した(参考:徳島新聞2018/3/25『新野小に撮影記念碑 映画「瀬戸内少年野球団」 夏目雅子さんらの名刻む』)。
モンゴル野球青春記
阿南市内のそのほかの野球にちなんだ作品は、『瀬戸内少年野球団』以後の2作品が挙げられるだろう。『モンゴル野球青春記』(以上映画)、『さすらい署長風間昭平』(テレビドラマ)だ。
阿南市に合併前の旧那賀川町・那賀川体育協会野球部は平成3年(1991年)、モンゴルと野球道具のプレゼントや双方の野球少年のホームステイで交流。さらに平成8年(1996年)には当時の町長が全国から募金を集め、モンゴルに国立野球場を建設した(参考:読売新聞徳島版2007/8/19『モンゴルと野球交流再び 阿南市長ら現地訪問 旧那賀川町時代に球場贈る』、『野球のまち阿南をつくった男』)。
そのモンゴルとの野球交流の延長上の成果が平成24年(2012年)ロケの『モンゴル野球青春記』だ。モンゴルで野球指導する日本人青年を描いたもので、那賀川町や桑野町のJAアグリあなんスタジアムでロケが行われた。
『モンゴルー』は本来は大阪の球場が舞台であるが、制作陣の方から「モンゴルとの草の根野球交流の象徴として、阿南で撮影したい」と申し出た(引用:徳島新聞2012/1/7『来春公開の映画「モンゴル野球青春記」 阿南ロケ9月上旬に 制作会社 市長に説明』)。
『モンゴル野球青春記』予告編など
https://www.youtube.com/results?search_query=モンゴル野球青春記
同映画は平成25年(2013年)、ロサンゼルスで開かれた第5回オールスポーツ映画祭の長編映画部門でグランプリを受賞している(参考:徳島新聞2013/11/13『阿南でロケ「モンゴル野球青春記」 米スポーツ映画祭GP』)。
さすらい署長風間昭平
平成27年(2015年)9月ロケの『さすらい署長風間昭平 阿波おへんろ殺人事件』は、テレビ東京系のサスペンスドラマ。
全国各地を渡り歩くシリーズもののフォーマットの一話という位置付けであり、本話では野球を大きいテーマとしているものの、ストーリーはフィクションだ。
幅広い市内の観光地を登場させており、どちらかというと自治体の観光宣伝的な色彩が濃い作品だ。
『さすらいー』は先の2作と異なり、制作陣が阿南市ないし野球に着目した経緯はあまり報じられておらず不透明だ。
『広報あなん』平成27年(2015年)11月号によると、脚本の鈴木康弘氏は「阿南市は古くから野球が盛んな土地柄だと聞き、物語に取り入れようと思いました」とコメントしており、シリーズの継続ありきで、阿南の野球文化そのものがスタートにあるわけではない設計という印象を筆者は受ける。
『瀬戸内少年野球団』や『モンゴル野球青春記』は新野町や那賀川町がアート作りに必要だから、制作陣のほうから選ばれた事例といえるだろうが、『さすらい署長風間昭平』はもともと野球や阿南市が必ずしも求められていた必要性は不透明で、観光行政と放送業界の商業行為という性格のほうが強い印象を筆者は受ける。
映画・ドラマ作品のロケ地でみた阿南市内の野球の代表は、先方からアート活動のパートナーとして選ばれた新野町と那賀川町が中心部といえよう。
野球施設に見る中心部
野球施設でみる中心部はどこか。
桑野町にJAアグリあなんスタジアムが開園したのは平成19年(2007年)5月。市が「野球のまち阿南推進協議会」を設立したのは同年6月。さらに「野球のまち推進課」が市に設けられたのが平成22年(2010年)4月だ。
一見するとJAアグリあなんスタジアム開園をきっかけとして始まっている同地域の野球文化だが、実際はそれ以前から同球場の場所周辺に、学校付帯以外の単独系の公営野球施設や野球文化が集中している。
(※ 新野グラウンドは新野中学校に隣接しているが、「阿南市市民グラウンド条例」で市営野球場として扱われる)
JAアグリあなんスタジアムからの直線距離でみると、桑野グラウンドは800メートル、阿南市初の甲子園出場校の地である阿南光高校新野キャンパス(旧新野高校)は1,300メートル、福井グラウンドは2,400メートル、『瀬戸内少年野球団』ロケ地は2,500メートル、新野グラウンドは2,800メートル。そのすべては3.5キロメートルほどの円内に集まる。
北部の那賀川町・羽ノ浦町にもグラウンドおよび野球交流文化が存在するが、いずれも平成18年(2006年)3月の阿南市への合併前に成されたものである。合併前の阿南市では長期にわたって、新野付近が市内で最も野球に親しみやすい環境であったといえる。
JAアグリあなんスタジアム以前も以後も、野球施設でみると新野付近が中心部といえるだろう。
「野球のまち」事業にみる中心部
市による「野球のまち阿南」の立役者、田上重之著『野球のまち阿南をつくった男』によると、阿南市の特徴として中高年の野球チームと草野球チームの多さを挙げている。
還暦野球チーム数でみると徳島県全体で16チーム、徳島市で1チームであるところ、阿南市は10チームだという(出典:同書P24)。
また草野球(軟式野球)チーム数でみると、阿南市には約90チームがあり盛んな状態だとしている(出典:同書P70)。
同書の構成の流れでみると、市による「野球のまち」事業は当初の着想、焦点は中高年であるが、次第に草野球に着目し、高校野球や大学野球など幅広い年代の野球チームによる試合・大会の招致政策にシフトしている。
「野球のまち」事業においては、野球熱そのものや、同事業をサポートする団体は市全体にわたって存在するため、代表とする地域は限定できないとする見方は可能である。
それでも強いて言えば、他に代わりのきかない要素を抱えているかどうかで絞ると、野球人の活動の核となるJAアグリあなんスタジアムは桑野地域に所在すること、来訪野球チームに多用される宿泊場所が桑野地域のビジネス旅館であること、からすると中心部を絞るなら桑野地域であるとみるべきだろう。
まとめ
甲子園出場の原点、市外交流の端緒、作品ロケ地、野球施設、市の事業内容からみても、「野球のまち」の中心部は、新野・桑野・那賀川を特筆すべきだろう。
「野球のまち」活動は、その活動者の管轄エリアである市全体の振興業務にこだわるあまり、肝心の中心部である新野・桑野・那賀川の顕彰が曖昧模糊としたものになっていないか。市などはいまいちどスポットライトの焦点を絞る必要があるのではないだろうか。
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