「(We) 私たち」ということ
もし、私が、総理大臣もしくはそのスピーチライターであれば、おおよそ次のような趣旨のスピーチを志向するであろうと思います。
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我々は今未曽有の危機に面しています。それはコロナウィルス感染症という危機と、そのウィルスが明らかにした我々の社会の様々のシステムが上手く機能していないのではないかという危機です。
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これらは「私」の責任も大きいと思います。完全であったとは当然言えません。その点は謝罪いたします。引き続き最善を尽くします。しかし、同時にどうもこれは「私」だけで解決できるようなタイプの問題ではなさそうです。
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この問題は「私たち」と「私たち以外」について、少し考えなければならないというタイプの問題に思えます。
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「(We )私たち」というのは、ある場面では「自分の家族」であったり「自分の職場の人達」であったり「自分の近所の人達」であったり「自分の街の人達」であったり「自分の国の人」であったりします。またある時は「自分と同じ考えの人」かも知れません。様々なタイプの「私たち」があるのですが、それは同時に「私たち以外」を決め、それを排除する言葉でもあります。
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ここでお願いです。それは<コロナウィルスと戦う期間だけでも良いので、「私たち」をもう少しだけ広く考えてみませんか?>というものです。「私たち」で語り始める前に、<「私たち以外」の中に「私たち」に加えても良い人は本当にいないのだろうか?>それを考え、その人を想ってみる。そういうことです。
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「私たち」は今自粛すべきだ。そう思った時に、例えばエッセンシャルワーカーという必要な現場で働く、具体的な「友達」や「恋人」や「恩人」を想ってみること。それが「あいつは何故」という怒りの気持ちが起きたときに、「何か尤もな理由がそこにあるかも知れない」という考えの足掛かりになるかも知れません。「私たち」の暴走はこんな時に起きやすいからです。
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システムは「私」をベースに、一定のグループの「私たち」を<仮に>決めて、そのふるまいを分析し、考慮し、様々なことを決定します。それが効率的だからです。しかし、一定の「私たち」を決めたとき、必ずそこに「私たち以外」が生まれます。それは時に人でない動物や植物かも知れません。
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システムが「私たち以外」を生みだすのは、ある意味仕方のないことのようにも思えます。しかし、それは効率的に社会を運用するために「仮に決めた私たち」と「仮に決められた私たち以外」です。そこには必ず、運、不運が発生している。その共通の理解がこの社会にあれば、「私たち」の「私たち以外」に対する手触りは、より柔らかで豊かなものになるのではないかと思います。
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「私たち」が「私たち以外」のために苦しめられてられているという考えは、社会の緊急事態時に最も恐れるべきものです。それは「私たち」が「私たち以外」を苦しめているかも知れないという思いを失った社会という意味でもあるからです。
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コロナウィルス感染症とその影響により命を失われた方々へ、哀悼の意を表すると共に、より良き未来について引き続き考えていきたいと思います。
少しトラブルがあって、旧アカウント消して新たに再出発。以前のアカウントフォローされていた方🙇。今度はゆっくりやります。