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あなたにとってのスポーツの素晴らしさってなんですか?[価値観は人それぞれ]
「あなたにとってのスポーツの素晴らしさってなんですか?」と聞かれたらすぐに答えられますか?
僕は画像一枚で説明することができます
引用元 「帝京大、NEC破り準々決勝へ ラグビー日本選手権」 日本経済新聞
これは帝京大学が日本選手権で社会人チームの「NEC」を破る偉業を成し遂げた時の写真です。
当時帝京大学は大学ラグビー界では敵なし状態で目標を社会人撃破に焦点を当て日々の練習を積み重ねてきました。
僕がスポーツをやっててよかったと思う瞬間は「いままで積み上げてきたものが一つの成果として爆発する瞬間」です。
この写真はまさしくその瞬間が表れた写真です。
こういった場面って他にもたくさん見られるんじゃないのでしょうか。
W杯・オリンピック・甲子園・IH・地方大会の決勝
様々な大会や大きな舞台というのはその積み上げたものを出す場として機能しています。
ここで一つ問題提起です
それがスポーツとしての崇高なあり方だと思ってはいないか
僕が言いたいのはこういうことです
「死ぬ気で練習して勝ち取ることこそスポーツの崇高なあり方」という思考が蔓延してるのでは?
積み上げというのはとても苦しいものです。
自分の中の体感としては楽しいこと0.5割しんどいこと9.5割
ただ、それを乗り越えたら得られるものがあると僕は知っています。
高校時代の花園や大学の時の選手権などは本当に素晴らしい舞台でした。ただ思い返すと僕はあることに気づきます
苦しみ栄光をつかむ競技スポーツこそ崇高な存在
というバイアスに僕たちはかかっている
余りにも大きすぎる光
上で書いたような大きな舞台で活躍する人や一流のアスリートは苦しみぬいた先でそこにたどり着いたのでしょう。
上のような舞台で活躍できなくてもそこに身を投じた人(いわゆる体育会系)は社会に出て活躍している人が多い印象を持っています。
僕はこれをよく光と例えます
甲子園に出る・プロに行く・日本代表になる・体育会系のコネクションを活かして成功する
もうとてつもない大きな光ですよね
多くの人がここに憧れそして目指し努力する
僕自身もこの光を目指して頑張っています
光があるなら絶対に影も存在する
ただ、勿論ですが光は影を生み出します。
僕の周りには途中でやめていった仲間たちや挫折して心が折れてしまった人が沢山います。
あなたの周りにもいるのではないのでしょうか
また、指導者の過度な指導や体罰によってそのスポーツ自体が嫌いになってしまったり辞めてしまったりするケースもよく聞きます
この影は何が生み出しているのかというと上の光です。
特に僕が感じるのは「苦しんで得られるもの」以外意味はないと考えているチームほどこういった影を生み出しているように感じます
多分そこの指導者も悪気があってそうしているわけではないのでしょう。
その指導者本人もそういったチームで育ち、生き残り、成功したという経験からくるものです。
つまり、その人も「苦しみ栄光をつかむ競技スポーツこそ崇高な存在」というバイアスにかかっている
ということになります
苦しんで俺は成長したんだという自負や成功体験からこれこそ正しいんだと思い込んでしまう。その過程でそこまでたどり着くこともなく脱落していった者たちのことは全く見えていない。
自分が光であったため影が見えていません
または影が見えていても俺はそこで成功したんだからそれは致し方ない犠牲なんだと自己暗示しているかどちらか
確かに、苦しんだ先で得るものは素晴らしいものです。
ですがその裏で起きていることにもきちんと目を向けるべきです
そしてその影を生み出しているのにはもう一つ要因があると思っています。
大きな光が小さい光を飲み込んでいる
これが影以上に大きく厄介な存在として立ちふさがっています
今まで言ってきたのは競技スポーツ界の問題です。なので、そこにいる指導者は勝つことが求められます。となると、影を生み出すのは致し方ないようにも考えられます。
ただ、次の問題はスポーツ界全体の問題です
放つ光が大きすぎて小さい光を飲み込んでしまっている
大きな光とは先ほど言ったような競技スポーツの頂点ともいえる舞台などで成功することです
しかし、それが放つ光が大きすぎて小さな光を吸収してしまっています。
小さな光とはここでは楽しむスポーツという概念です
ぼくはそこがないがしろにされているように感じます
楽しむスポーツって基本陽の目を浴びないですよね。
草野球がTVで中継されることなんてほぼありませんし公園でやってるサッカーに熱心なサポーターがいて何千人も見に来るなんてことはまずありえません。
陽の目を浴びないからと言ってスポーツ界全体がないがしろにしているような気がします
「楽しむスポーツをするのは自由だけど勝手にやってね」みたいなかんじになっていませんか?
とくにジュニアスポーツはその傾向が顕著であると思います
中学や高校の部活を例に見てみましょう
仮に楽しむことをコンセプトにしたり脱勝利至上主義を掲げるチームがあったとします
周りはそれを称賛しますよね。子供の将来を考えた素晴らしいチームだと
実際そういったチームを記事で取り上げたものをよく見ます
ですが、彼らの出場する大会はどうでしょうか。
日本一を目指すチームやプロを目指すような人たちと同じ舞台で戦わされていませんか?
そこに出ても現れるのはレベル差です。ボコボコにされて一回戦で立ち去ります。
これがないがしろにされていると言わずにどういう言い方がありますか?
楽しむことがコンセプトのチーム=素晴らしい!!
とほめたたえるだけで楽しむための制度設計も仕組み作りもしていないです。
共存共栄の世界へ
全国大会や競技スポーツを否定したいわけではありません。ただ、確実に言えるのはそこの棲み分けはきちんとするべきということです。
スポーツは人によって様々な価値観が存在します。人生そのものである人や趣味程度の人、仲間との交流のツール。それぞれをごちゃまぜにしてもいいことはありません。
ごちゃまぜにしてたどり着いた先は「存在の大きさが勝つ世界」
多くの人が夢を見る。そしてたくさんの人が応援する。それによって経済も回る。
めちゃくちゃ大きな存在です
それによって競技スポーツ一辺倒の世界を作り出してしまいました。
その格差を是正するには
「苦しみ栄光をつかむ競技スポーツこそ崇高な存在」
という多くの人にできているバイアスを取り除く必要があると思います
確かにそういったものは素晴らしいものであると思います。ただ、それもスポーツのあり方の一種。それだけです。
満員のスタジアムを目指そうが公園の片隅で楽しもうがそこに上も下もありません。
そこでマウントを取り合う必要もなければいがみ合う必要もないと思います。
そこの理解が進みこういった考えが深まれば先ほど言ったような影となる人も小さな光を浴びれるようになると思います。
大きな光もあるが周りに小さな光も存在し共存共生できる世界
楽しむスポーツも栄光を目指し進み続けるスポーツも共存できる世界が近づいたらいいなと切に願っています。
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