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勝負する習慣はありますか?/試合は練習のように・練習は試合のようにという言葉を考える
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試合は練習のように練習は試合のように
この言葉良く聞きますよね。僕自身も小・中・高一貫してそう教え続けられてきました。
そしてそれを当たり前のように思いこれが理想なんだと思ってきました。
ですが最近これって本当に正しいのかなと考えるようになりました。
今回はその考えを共有したいと思います。
試合は練習のように・練習は試合のようには正しいのか
試合は練習のようにリラックス・練習は試合のような緊張感で取り組む
なぜ、そのような言葉が生まれてしまったのでしょう。
「試合は練習のように・練習は試合のように」という言葉が生まれてしまった理由。
練習に緊張感を持たせたい。その気持ちは充分分かります。
ただ、選手自身その言葉通りに行動するのはとても難しいです。口酸っぱく言っても練習である以上「練習モード」になってしまうし試合にいつも以上の緊張感を持って取り組んでしまうことだってあります。
ということは、その言葉が生まれてしまうということはその時点で練習と試合の区別ができてしまっているということ。
つまりその区別に対処しようと生まれた言葉が「練習は試合のように・試合は練習のように」です。
その根本から対処。すなわち練習と試合の区別をなくすにはどうしたらいいのでしょうか。
まずは「練習モード」という言葉から「練習は試合のように」を紐解いていきます。
僕達の中に存在している練習モード
パワプロやウイイレをやった人ならわかると思います。そういうゲームって大体練習機能がありますよね。
それを使って勝った負けたとなる人はいないと思います。
これは僕達の身体の中にも存在しています。練習になったら「練習モード」にカチッと切り替わってこなしていく。そして試合の為の練習がどんどん面白くないからと惰性になっていく。
そして緊張感がなくなり、練習の為の練習が生まれる
そこから練習は試合のように緊張感をもってやろうと声を掛けます。
しかし、それでは所詮練習モードからは抜け出せません。
いい練習とはなにか
僕も高校・大学と日本一をめざして沢山練習をしてきました。その中でいい練習・悪い練習というのが主観的に分かるようになってきました。
やっぱり僕の中の主観的判断を下す基準は練習モードが存在していたかいなかったかなんですよね。
どこか上の空でなんかどんよりとした空気が流れてこなしている感じ。さらにチーム間のトークなどでもなんかしっくり来ない。
これが僕の中の練習モードです。
こんな練習しても意味ないよなーと中からも外から見てもそう思うと思います。これが僕にとっての悪い練習です。
練習モードが存在してなかった時はどんな練習になるでしょうか
なんかチグハグしてるけどミスも多い、だけど活発で盛り上がってて選手たちからもなんだか殺気を感じる。時には掴み合いだって起きる。チーム間のトークも凄い色々な声が飛び交う。
こんな時ないですか?こうなった時選手も練習が終わった時満足感を感じます。
それは何故かと言うと勝負をしたからです
練習モードがないというのはそういうことです。
ここまで見てきましたが「練習は試合のように」という言葉は少し正しく見えてきます。なぜなら練習は試合のような緊張感を作り上げることが大事だからです。ですが、「練習は試合のように」と声をかけたところで「練習モード」になっている時点で対処は難しいです。
次は試合は練習のようにという言葉です
そもそも試合は練習のようにという言葉に無理がある
そもそも、試合は練習のようにリラックスっていうこと自体に無理があります。
練習の矢印は試合に向いています。つまり練習は試合のようにというアプローチは可能になります。
だけど試合の場合はどうでしょう
試合の矢印は練習に向いてますか?という話です
試合のための練習は聞いたことがあっても練習のための試合なんて言葉聞いた事ありませんよね。
練習の集大成が試合です。
緊張するなという方が無理な話だし練習のようにやろうという方が非現実的。中々心の中で思ってても実現することは難しいです。
「試合は練習のように・練習は試合のように」これって基本的に練習の時に聞く言葉ですよね。試合前に「練習のようにやろう!」と指導者に言われたことありませんし言われても「ん??」って僕ならなります。(練習を思い出せ!なら理解できます)
僕の考えを変えた衝撃の留学生
この考えに至ったきっかけがこの留学生との出会いです。
僕の大学は留学生を受け入れています。彼らは母国からスカウトされそのチームを強くするために呼ばれたため当然上手いです。そして彼らは日本で成功しプロとしてラグビー選手のキャリアとして道を歩み母国にいる家族たちを養うことを目標にしているため志も高くとても真面目です。
練習も驚くほど手を抜きません。すべてに熱くいつも勝負している感じです
なので僕の同期の留学生も1年生から試合に出続けていました。
大学ラグビーの1年間の集大成は日本一をかけた選手権です。
僕達もそこにフォーカスして練習に励んできました。しかし、惜しくも途中で負けて日本一はかないませんでした。試合に出た選手は悔しさから涙を流しています。
しかし、僕の同期の留学生だけは違いました。
試合後なんと「負けて泣く分からない」と呟いていました。
僕はこれを聞いてやっぱ留学生だからそんなに日本一に思い入れもなくドライなんだなくらいに思っていました。
それが終わったらオフシーズンがやってきます。3ヶ月くらいは練習の強度も頻度も落とし身体作りやケアに専念します。
少し暇にもなるのでグラウンドに出て同期のみんなでタッチラグビー(タックルの代わりにタッチで行う安全なラグビー)をして遊んでいました。
当然僕の同期の留学生もそこにいます。
そこで、僕が独走状態になってトライになりそうになりました。みんな遊びなのでそんなにすぐ諦めます。しかし彼だけは違いました。必死に追いかけて何とか足首にタッチしようと飛び込んできました。
僕は思わずトライ後、彼に「何でそんなに必死に追いかけてきたん?」と聞いてしまいました。
そこで彼は
「負けたいゲームないよ」
と言いました。
さあここで彼の価値観が1本の線で繋がります
留学生の彼の取り組みをもう一度見てみる
彼には大学選手権も練習の中の1vs1も遊びでやるタッチラグビーも切り抜いた一つの勝負だしそこに大きいも小さいもありません。
練習も試合も遊びも全部切り抜いた勝負の一つでありそこに区別がない
これってめちゃくちゃ効率的だと思いませんか?
彼のように試合も練習も横一線で考えるようにアプローチした方が「試合は練習のように・練習は試合のように」と声をかけるより現実的だと思います。
毎回を勝負にして区別をなくせば練習は全力で取り組み試合のパフォーマンスは過度な緊張がなくなるため安定します。
どうしても試合と練習を分けてしまうとそれぞれを別のものと意識してしまいます。これが続くとカテゴリーが上がるにつれて差が顕著になります
トップアスリートほど下のような人が多いと思います。練習も試合もぶつかり合い自分自身そして相手と勝負し続ける。前者の人は淘汰されるか取り組み方のモデルチェンジを余儀なくされます。
ならば最初から下のような人を作り出したほうがいいでしょう。
「試合モードと練習モードが存在し区別しこれは勝たなければいけない、これは練習と区別している人」
「試合も練習も関係ない目の前の一つが勝負だしそれに大きいも小さいもない人」
プロセスを大事にする危うさ
勝つことは嬉しい・負けることは悔しいこれはみんな知ってることです。
子供のころは校庭の遊びも一生懸命だったしジャンケンで負けて泣くなんて茶飯事だったと思います。
これがスポーツの世界に飛び込むにつれて薄れていきます。
※ここからは僕の仮説になります。しばらくお付き合い下さい
理由として考えられるのは子供の頃から目の前の練習を先の目標のために取り組んでいることにあげられると思います。
試合に勝つために練習をする。大会で優勝をするために練習をする。
一見素晴らしい事のように思えますがこれをアプローチし過ぎるあまりに練習→試合というルートができてしまい練習自体がプロセスとして存在してしまいます。
大人はプロセスを大事にします。PDCAなんて言葉が当たり前のように飛び交います。
子供はどうでしょうか、目の前の楽しさを優先しますよね。
大人はプロセスの大切さを知っているため目の前の楽しさを捨てプロセスを大切にすることを教えます。
そして、子供はプロセスをつまらないものと感じます。=練習は面白くないと判断してしまいます。
練習=面白くないが当たり前のように自分の中で存在してしまいます。面白くないことで子供は勝負しません。だって面白くないことはどうでもいいからです。
練習も勝負!試合も勝負とにかく目の前のことに勝ちたい!くらいの感じで捉える
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そして将来試合のカテゴリーが上がるにつれて試合の価値が上がり勝つために練習をもっと頑張りたい!
☟
どんどん上手くなる試合に勝てるようになるから練習楽しい!だからもっと練習する!
くらいの順序で進んでいくことで練習→試合のプロセスを少なからず楽しいものとします。
多分ですが僕の同期の留学生もこんな環境で育ったのでしょう。
全ての事柄に本気で取り組むし試合になっても練習と変わらないパフォーマンスを引き出せる。練習もまじめで一つの勝負に熱くチームに与える影響はとても大きいです。
ただ、自分も含めて中々そこまで行くことはできません。練習モードにだってなる。染みついているものは中々抜けません。
だからこそ子供のころから勝負する習慣をつけることが大事なのかなと思います。
勝負することを楽しいと思わせよう!
子供に勝負する習慣をつけさせるにはそれ自体が楽しいことのように思わせることが大事なのではないのでしょうか
試合ももちろん大事ですがそこにばかり焦点を当てずに切り抜いた一つ一つを楽しませそこで勝負させる。
そして、勝負しに行ったら褒めてそれが楽しいことなんだと思わせる。
スポーツの楽しさも教えることができるし一石二鳥です。
まとめ
・僕たちには練習モードが存在している
・「試合は練習のように・練習は試合のように」は区別してしまっているから生まれてしまった言葉
・試合は練習のようにというのは無理がある
・プロセスを大事にするとかえってそのプロセスに本気で取り組まなくなる
・子供のころから習慣づけることが大事
・勝負する楽しさを知ろう!
「練習は試合のように・試合は練習のように」という言葉が間違っているわけではありません。ただ、その根元から対処していけばその言葉すらも使うことはなくなるのではと思います。何より、勝負することは楽しい!と思ってくれる子がもっと増えるといいと思っています。
僕はこれからもこういったことを考え続け発信していきたいと思っています。
この記事の最後に購入欄をつけさせていただいています。
このご時世働いている方も大学生も厳しい生活が続いています。それは僕たちのような体育会系大学生も例外ではありません。もしよろしければ支援のような形で購入いただけると今後の活動の励みになります。
最後まで読んでいただきありがとうございました
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