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根性って否定されるべきもの?|スポーツと根性について考える

最近よく思うことがあるんですけど「根性」っていう言葉が段々と否定的なものになっていっているような気がします。

例えば偉い人に「君根性あるなあ」と言われてもそんなにうれしくない。「気持ちが足りない」と言われても具体的に言えよっていう風潮になる。

かくいう僕もそういった上のようなことはあまり好きではありません。そんなことより教えてくれよみたいに思います。

逃げ場として存在している根性論

根性論をみんなが嫌う理由って多分そこが指導者の逃げ場だったからだと思います。

「言語化できない」「具体的なことが言えない」「そもそも何もわからない」

そういったものを簡単に「気持ちが足りない」の一言で補っていた。そこに疑問を抱いていても指導者っていう圧倒的な立場から言われるからモノを言い返せない。そうやって根性=悪という存在が心の中に埋め込まれていく。そういった人たちが今どんどん増えたことにより根性は否定されるべきものとして存在している。

そうしていくうちに根性論そのものが嫌いであったはずがそもそも根性自体が嫌いになっている。

分かりやすい例でいうと

合理的なトレーニング VS根性論といった構図です

合理的なトレーニング VS根性論

高校野球などでも合理的なトレーニングをしているところなどが取り上げられると「脱根性論!」と大きく叫ばれ甲子園に出れば世間から大注目されます。

それとともにこういった見方も広がります。

「合理的なトレーニング=根性論の否定=根性はいらない」

根性論による練習がはこびっていたからこその反動だと思います。

そもそも、合理的なトレーニングって何でしょう

僕をフォローしてくださっているとある接骨院の先生からこんなリプライをいただきました

たまに「合理的なトレーニング=しんどくない」と捉える方がいます

けどそれは全くの見当違いで合理的なトレーニングってめちゃくちゃしんどいです。

合理的なトレーニングと根性論的なトレーニングの違いって根拠があるかどうかという見方があります。しんどいトレーニングを意味があるものにしたのが合理的なトレーニングです。

そうなると別に根性自体が否定されているわけじゃありませんよね

スポーツと根性という言葉のアレルギー性

「試合ラスト5分足が止まった時の踏ん張り」「劣勢の場面でもあきらめない姿勢」「普段のトレーニングで限界からもう一回やる」

気持ちの弱い人間がそういった場面で頑張れますか?といわれると答えはNOです。となるとスポーツに根性は必要ということになります。ただ上の言葉の通り「スポーツと根性」といった言葉にはアレルギー性があります。

その言葉を聞いただけで選手や周りの人は毛嫌いする。

これが「スポーツとメンタル」といった題になってそういったことも大事だからスポーツには気持ち的な部分も必要だよね。ってなると少しは信ぴょう性が上がると思います。

なにも、意味は変わりませんただ言葉が変わっただけです。

根性の伸ばし方

さあ、ここからは根性の伸ばし方です

僕が思うに限界まで追い込む以外にないと思うんですよね

だって、試合になったら終盤なんて限界に近いしプレッシャーもあがる。ならば同じような状況を作り出す以外に方法はないと思います。

精神的にも肉体的にも限界に追い込んで練習する。去年のラグビーW杯前の日本代表の合宿でもそういった状況を作り出していました。

そこの限界に持っていくことをいかに選手に納得させるかが大事だと思います。一方的に持っていくのではなく双方向でコミュニケーションをとる。これが必要なのかなと。

はっきり言って選手はしんどいトレーニングをやるコーチのことが嫌いです。合理的だろうと非合理的だろうと一緒です。だからこそしんどいトレーニングをやるときはお互いのコミュニケーションが必要だしやる意味を提示しないといけないのかなと思います。

まとめ

・根性という言葉をみんな嫌っている

・合理的なトレーニング=脱根性論だが=根性を否定!にはならない

・合理的なトレーニングと根性は共存すべき存在

・「スポーツと根性」といった言葉にはアレルギー性がある

・根性を伸ばすには限界まで追い込むしかない

まとめるとこんな感じです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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