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2022年1月22日(土) アフリカの亡霊

2022年1月22日(土)

1万字以上になってしまいましたが、大学卒業からのことも含めて、#創作大賞2022に応募します。

 ーーーー以下、本文ーーーー

とりあえず警察でも受けとくか。
2012年の夏、何も考えずに、先輩がたくさんいるから。特にやりたいこともないし。剣道やっているからとりあえず警察なら受かるでしょ。というような気持ちで、警察の試験を受けていた体育会剣道部の自分がいた。
警察は剣道をやっている人にとっての鉄板ルートだ。
体力試験もあったが特に何をしたなどは覚えていない、腕立て伏せのテストはきつかった。それくらい。心の底から入る気もなかったんだと思う。

そこに至るまで特に何も就活らしい就活をしていなかった。興味ありそうなところにはESを送るけど、落ちる。あぁ大学名で落ちたなと大学のせいにしていた。特に何をやりたいのか自分でもわからなかったし、SPIもなんか難しくて、途中で投げ出していた。単位は3年間で取り終え、4年次はファーストフードのアルバイトと体育会剣道部の活動のみだった。
ろくに企業研究もせず、インターンの存在すら調べていなかった。こんなことやんなくてもどっかは就職できるでしょ。というよりもそんなことも考えていなかったのかもしれない。自分自身にも自信がなかったし、剣道部の活動自体も本気でやるのがださくて何となく生きる、それだけだった。
警察入って、どうなるんだろうなぁとぼんやり考えている時に警察の二次試験?の結果が来た。あっ落ちた…
警察には何となく入れるもんだと思っていた。でも不思議と焦りはなかった。あぁ落ちたんだな。それくらい。逆に落ちた時にはホッとしている自分さえいたような気がした。多分、警察に入る自分は嫌だったんだと思う。でもその嫌に抵抗できるくらいの気持ちもなかったし、自分に何か価値があるのかなぁと思う日々だった。
でも落ちたから何となく入る会社も見つけなきゃいけない。でももう名前のある会社は募集されていないな〜ここじゃあ嫌だな〜もっと楽そうなとこないかな〜そんな感じだった。しかし、事あるごとにESは落ちる、受かった人は100社は普通に出しているよ。そんな噂を耳にしながら、いやいや効率的にもっとできるでしょ。説明会でノートにペンを走らせている人を見ては、それ見返すのかなぁ?大事な事だったら頭で覚えられないのかなと人のことを見ていた。そんな余裕というか、就活に対して、本気じゃなかったんだと思う。だから、変な?というか、焦りは全くと言っていいほどなかった。
でもこの時に一番考えていたのは自分のやりたいことって何?だった。でもそれがなかった。だから困った。自分自身の為体は自分自身がよくわかっていた。だからこそ本気でやりたいこととぶつかりたいという思いもあったんだと思う。でもわからない。多分、縁があって入ったところ、そこがやりたいことと決めつけていた。あの日までは。


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就活の中では内定式も終わって、もう詰んだ状態でも内定はない。合同の就職説明会に行って企業ブースを回っても、ピンとこない。というよりももう行くことが目的になっていた。その説明会は確か幕張だった。
昼過ぎに終わって、ふと飛行機を見に行こうと思った。成田空港の飛行機が見える公園にいた。飛行機は昔から好きだった。小さい時から乗ることも好きだったし、飛んでいる飛行機の機種くらいはわかる。気付けば暗くなっていた。5時間くらいは寒空の下、飛行機を見ていたんだと思う。よくある感じで涙は出てこなかった。でも、飛行機を見ながら、これなんじゃないかと思っていた。いや。でも。無理だろ。でも素直にやりたいと思った。なりたいと思った。

そう。パイロットに。

内定も出ない、就活もろくにしていない、剣道しかやってこず、ろくに勉強もしていない。そんな学生がパイロットになりたい。そう思った。何を言い出しているんだ?そんなの無理だろ。そんなことを言われるたびに、考えれば考えるほど、ワクワクした。人は何がきっかけでスイッチが入るかわからない。うまく言葉では言えない。でもなりたいと思った。心の底から。本気でやりたいと思った。一番近くに教材がいた。父だ。父はパイロットだった。小さい時から、飛行機の話を聞いていた、空の話を聞いていた、出勤する時にカッコ良いものを着ていたとは身近すぎて思ってもいなかった。
さぁどうしようか。航空会社に直接入ることができて、給料をもらいながらパイロットになれるコースがある。自社養成制度だ。そのコースでパイロットになる人から宇宙飛行士も輩出しているいわゆるエリートコース。日本からも選りすぐりの大学生がそこから入っている。誰でも受けられるから何となくそれも受けたような気がしていたけど、自分からは程遠すぎてどこで落ちたかも覚えていない。本当に狭き門。
今から勉強して、努力してなれそうなところはないのか。まずは自分自身で調べた。航空大学校があった。そこはパイロットになる国立の専門学校で、入学テストをクリアすれば25歳までであれば入学ができる門が開かれた学校だ。卒業生のほとんどが日本のパイロットになっている。もうここしかない。成田空港で飛行機を見た日から何日経ったかは覚えていない。でも本気でやりたかった。新卒を捨てでもやりたかった。本気になれると思った。それまでの自分から変われると思った。

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親に言うときは親が少しでも喜ぶような言い方をしようと思っていた。背中を見てきたから、やっぱりなりたい。んー生きてきたのを見ていて、、、

『本気でパイロットになりたい。』

気付けばそう言っていた。自分じゃないかと思った。
『俺も好きなようにやってきた、好きなようにやれ』の一言だった。何か決まったような気がした。決まったと言うよりも、言葉じゃなくて行動しなかきゃいけない。最大限の努力をして、パイロットになるのを決めた。なるのを目指します。ではなく、なると決めた。
1~2学年上の先輩から言われた。新卒を捨てない方が良い。どこかに就職していた方が良い。そんなことはもう誰しもの常識だった。自分もそう思っていた時期があった。でも、結局それは常識であり、その人の主観でしかない。もう決めた。その後は何を言われようとブレなかった。
ただ、何から取り掛かっていこう。それが問題だった。航空大学校の一次試験は学力テストでまずはそれを越えなくてはいけない。物理・数学・英語がメインだった。
その時の学力は最低レベルだった。高校もずっと剣道。授業は寝ていた。高校から大学はエスカレーターでセンター試験は受けていない。英語も海外に行ったのは中2が最後。そんなレベルだった。
黄チャート?何それ?
重力加速度?へー。
接続詞は…んー
本当にそんな感じだった基礎の基礎からやるしかなかった。自分の場合は基礎の基礎の基礎くらいか。だから、まずは航空大学校の専門の予備校があるので、基礎コースから行った。一次試験は例年7月だった。12月からその基礎コースはスタート。親からお金を借りた。大学も行った人間がまたさらにお金を借りる。もうやるしかなかった。パイロットになったらいくらでも返せるのは目に見えていた。だからやるしかない。
そこからは勉強の日々だった。朝5時に起きてCNNのニュースを1時間みる、そのまま図書館へ行き、午前は数学、午後は物理、そして英語。何をどうやったかは覚えていないが、本当に必死だった。多分楽しくはなかった。本気だったんだと思う。必死だったんだと思う。夢を持つことの大切さを身にしみて感じていたんだと思う。
パイロットにはもう一つ大切な要素がある、健康だ。頭が良くても、血圧や体内の数値で落とされてしまうことがある。イメージする健康診断ではない、日本の法律によって定められている航空身体検査をパスしなければいけない。何百項目もびっしりと眼圧なども含めて、体の隅から隅までチェックされる。それが航空大学校の2次試験だ。大学まで剣道をやってきたことの一番良かったことは運動することに慣れていて、健康面では何も問題がなかったということ。事前に自費で受けるのだがそれも良い数値が出ていた。食にも本当に気をつけた。野菜中心の生活、アルコールは基本的に飲まないようにした。油っぽいものも避けた。とにかくあれをやっておけば良かったと言うことがないようにした。でも辛くなかった。何でもできた。
辛いことも、苦しいことも夢を持つことでそれが希望になる。それを自分自身で感じていた。
数学・物理・英語・運動・食事その毎日だった。英語の授業で全くできずに先生にこっぴどく怒られた。数学も物理も基礎で知らないことが多すぎた。でもやった。わからないからやった。努力だけでは負けちゃいけないそれだけだった。能力がないことはわかっていた。でも光を見出すにはまずはやるしかない。それだけだった。

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7月のテストの直前6月くらいに、その予備校で模擬試験があった。予備校側もその結果次第では、あぁいけそうだなとか、厳しそうだなとかわかるような感じだ。確か40人くらいだったと思う。テストの結果も順位で出される。一番下だった。笑うしかなかった。周りのみんなも模擬だから!というような言葉をかけてくれたけど、多分こいつはもうダメだろうなと思われていたと思う。自分の中でも流石に響いた。でもそんなこと言ってたってもうやるしかないんだから、やった。できなかったところ全部やり直した、開き直りだった。
そして迎えた7月の一次試験本番。テスト会場に向かうのにあんなに緊張したのは初めてだった。本気でやったからこそ、緊張していたんだと思う。やるだけのことはやった。それだけしかなかった。
その1日の詳しいことは正直覚えていない。あっという間に終わった感じだった。後悔なかった。最下位の男がどれだけやれるのか。見返したかった。
就活で何も結果を出せず、フリーターがどれだけやれるのか表現したかった。

そして迎えた一次試験結果発表。自分の番号が…あった!!まずは一次試験の通過だった。そんなに嬉しいことは久しぶりだった。いやそれまでそんな嬉しいことはなかったかもしれない。
でもそれは一次試験を通過しただけである。それからは二次試験。航空身体検査が待ち受けていた。より一層食事にも気を使った。2次試験は8月末。
明確な数字は覚えていないけれど、2次試験は進んだのは250人くらいだったような気がする。身体検査に関しては身体のみのチェックで、2次試験の前半で進んだものが2次試験の後半戦の脳波チェックに進むことができる。正直、ここまでくるとやるべきこととして必要なことをやらなければいけないが、どうしようもないという開き直りも大切だったと思う。
そして2次試験の結果発表の日。インターネットで一覧を開いた瞬間、全体の数が少なすぎて絶望した。うわぅと思った。

ん?あった!え!あった!

最終試験進出者は100人程だったと思う。当時の最終合格者が72人だったので、もう落ちる方が少ないくらいの数字になっていた。自分より遥かに得点を出せる人も身体検査で落ちてしまっていた。この身体検査で落ちてしまうと年齢云々ではなく航空大学校は2度と受けられない。本当に人生にはタイミングというのはあるんだと思う。就職試験を落ち続けた人間が言えることではないが、人間に起こることは全てに意味があるんだと思っている。パイロットになる頭のある人でも身体検査で落ちてしまう。本当に優秀な人でも。この時に落ちてしまった人が友人にいるが、今はビジネスの世界で大活躍している。でも真剣に取り組んだことには意味がないことなんてなくて、その人それぞれにやるべきこと、なすべきことがあるんだと思う。

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試験の話に戻そう。最終テストは宮崎の本校に行って、面接とフライトシュミレーターを使った適性検査である。普通の感覚の持ち主であれば問題ないと言われている。ここでものを言ってくるのは一次試験のテストの点である。一次試験と最終試験の合算で合格の順位が決まる。
ただ、面接も矢継ぎ早の質問に完全に焦ってしまった。次々に質問をして、焦らずに冷静に頭の回転をチェックしていたと思うが冷静にしていれば答えられる質問にトンチンカンなことを言っていたと思う。ただ、面接もよっぽどのことがない限り冷静に行えば問題ない。そんなこんなで不安を若干残しつつ、会場を後にした。とりあえず試験は終わったのだ。
自分自身の想像もしていない未知の世界の中に入って問題を超えるために努力をした。それがなければまずは何も始まらない。
ただ、努力の量=夢の実現ということではない。100の努力をしても落ちる者、1の努力で価値を創り上げ階段を登れる者、それは間違いなく存在する。
その努力も正しい努力ということが重要である。極端な例だが、サッカー選手になりたいのに野球の練習を一生懸命行ってもそれは正しい努力ではない。右バッターボックスで右手を下にしながら打ってもそれは正しくはない。全く打てない時に手が逆の方が良いのではと気づく。打てるようになる。
本当に極端な話だがこの努力の精度をいかに早く上げてゆくか。うまくいかなかった時に違う方法で試し、アドバイスももらいながら正しい努力に辿り着くのが早ければ早いほど良い。だからトライをしなくてはいけない。
トライ・エラーを繰り返さないと本当の努力というところもわかってこない。その努力の精度をより良くしてゆくのは、失敗もないとわからない。だからこそ難しいのだが。ただ、失敗したところでそれは間違いなく、自分の糧になる。いろんなことを知る。いろんな失敗を知る。何も意味もないということはない。失敗や挫折は間違いなくチャレンジをし続けるものだけに多くのものを与えてくれる。失敗してその場で立ち止まったらそれが1番の失敗である。

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そして2014年1月31日だったように思う。午前の何時かにインターネットでの最終試験の発表だった。
そこには間違いなく72人の数字が出ていた。宮崎での生活もイメージができていた、パイロットになる姿も想像ができていた。これまで努力してこなかった、新卒を捨てたフリーターが本気になれなかった自分の人生を新たにスタートする日だった。

結果は、不合格者の方が少ない最終試験に落ちた。

ショックも大きかったが、一次試験の結果などを考慮して考えると冷静にそうかと思う部分もあった。親は数日元気がなかった。
ここでの自分自身の経験になったのは、大抵のことでは驚かなくなったことであろうか。これほどの失敗やショックはこの先の人生でもうないだろうとショックを受けながらそう思っていた。
しかし、23歳、既卒1年目、フリーター、またパイロットを目指す前の自信のない日々の気持ちに引き戻された気もした。いろんな思いもあったが。もう一度だけ2014年の航空大学校も受けることにした。切り替えて、違うやり方で努力をすることにした。

フリーター1年目を航空大学校の最終試験で落ちるという結果で終えた。
ここまできたのだから2年目にも受けることにした。当時の航空大学校の年齢制限は25歳まで最後の受験だった。
昨年までのやり方でダメだったのだから方法を変える。基礎を徹底的に見直すことにした。早稲田の理学部卒の友人に教えてもらうようにした。
まずは同じ方法ではやらない。続けることも大事だけど失敗したのであればやり方は変える。それでもうまくいかない可能性はある。
でも同じことをして落ちるよりは後悔が少ないだろうという判断だった。
今思うと、この年はもし落ちたらという気持ちが前年にはないことだった。知るとはある意味怖いことである。落ちることに少し恐怖感を覚えていた。この気持ちが何かと邪魔していた。そんな不安との戦いもあった。
勉強していてもふとどうなるんだろう。そんな思いだった。
フリーター2年目で航空大学校を受けられること、そんな人間は自分しかいない。こんな経験をできるのも自分しかいない。そんな少しでもポジティブな要素を考えながらの夏までの日々だった。そして迎えた夏。周りにもう知人はいなかった。
今でも覚えている。昨年はできなかった問題が今年はできた。あの問題は間違いなく正解だったなぁ。自信は半々だったけど、なぜか終えたという気持ちがあった。もう待つしかない。
そして、迎えた一次試験結果発表の日。

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あっけなく航空大学校チャレンジの2年目の最後のチャレンジは終えてしまった。

不思議と涙は出なかった。冷静だった。終わってしまったことは仕方ない。しかし、何よりも心配をかけた家族には申し訳なかった。
ここで持ち合わせていた武器でいえば他の人が誰も経験していないことをした。もう怖いことなんてないことだった。でもまずは何を始めようか。何から始めれば良いんだろうか。
就活か。まだパイロットを諦めない道か。ここまできてパイロットをすんなりと諦めたらここまでの気持ちはどうなるんだろう。勉強しながら、お金を貯めて、アメリカで免許を取る。それがパイロットになるには一番良いように感じた。しかし、まずは知らない環境に入るのが一番だと思った。大学の通信制課程に入学した。学費は安い。そしてアルバイトもペースを増やした。とにかくやってみる。

そして同時に様々な偉人の本を読み漁った。来る日も来る日も日本の経営者・日本のトップスポーツ選手
2014年の夏。サッカー日本代表はブラジルで惨敗した。日本でも航空大学校の試験を終えた人間がいた。
この時に読んだ本の言葉。そして日本代表の惨敗。
そして、この年に自分自身の知見を広めるために始めたアフリカのボランティア。この約2年後に全てが交わる時が来るとは思ってもいなかった。

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大学の通信制とアルバイトをしながらアメリカに行くお金を貯める。または日本の大学のパイロット学部を受けようとあらゆる奨学金を調べていた。ここまでやってきたんだからと諦めきれていなかった。
しかし高額すぎる。慶應大学の通信制を最短でも卒業できるのは26歳。そんな歳で何にも経験のない自分が入れる企業も無い。
あらゆる思考が巡り巡っていたと思う。不安・心配・落胆・自己嫌悪そんな思いの繰り返しだった気がする。自分に自信なんかこれっぽっちもなかった。でも一つ違ったのは動くということ、アクションをするということだった。
その中でも何の為に生きているのだろうか。そんな思いもあったと思う。細かいことをよく覚えていない2015年。
ただ、この時の救いだったのは本と、人がやらないこと、人がやりたくない時に何かやることを意識した。
これは自分自身への救いの面もあった。人がしていないことをしているんだから普通の人生ではないだろう。
それは一種の逃げだったかもしれないが、この当時の自分にとっては数少ない自分への自信だった。
大雨が降っている時にあえて走った。そうすると晴れの日はわからない、水の流れや欠陥的な道が発見される。
夏はクーラーを付けない、冬は暖房を付けない。これは意味あったのかと思うが、、今となってはちょっと暑くても寝られるし人とは違う道をあえて見るということを当時はそこまで深く考えずにやっていたのは良かったんだと思う。
人がやっていることをやるんではなくて、あえて人がやりたくないこと、少ないことをやる。
悪い言い方をすれば天邪鬼かもしれないが。。。
そしてあらゆる偉人の本。
稲盛さんの本を読んでは、あぁJALに入りたい。
本田宗一郎さんの本を読んでは、できないことなんてないと思い。
野村克也さんの本を読んでは、自分自身で考えることの大切さを学んだ。
この時、野村さんの本で読んだ言葉が今でも自分の生きる基になっている。
『財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上なり。 されど、財なさずんば事業保ち難く、事業なくんば人育ち難し。』
社会・そして人間としての全てを表している。そう思った。この言葉があったからこそ2016年以降に繋がっていった。

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2016年もいつもと変わらない年始のスタートだったように思う。いつも通り正月になり、初詣に行き、テレビを見て過ごす。
パイロットになりたくて、大学卒業後にフリーターとなりパイロットを目指しているだけで、凄いね、夢があって良いね!と言われて、自分自身も諦めちゃいけないんだという気持ちがあると同時にどこか片隅に今年で26歳、このままパイロットを目指してズルズルいってしまって良いんだろうかということだった。
パイロットを諦めるのであればそれ相応のことが必要だと思っていた。

日本人としてはこの道を選ぶと同級生で既に就職している人たちのようにはなかなかなれない。
言葉としては詰んだという言葉がぴったりだったんではないだろうか。そんな詰んだ人生を救ってくれたのは、環境の変化だった。
それまで生まれ育った街にいたがその年、実家が海のある街に引っ越したので自分自身もついて行かざるを得なかった。
新しい環境、周りに誰も知っている人がいない状況。甘えのために行っていた地元の友人の飲み会もできなくなった。
今思うとこの引っ越しがなければ何も変わっていなかったかもしれない。そして何となく始めた海の近くの結婚式場のアルバイト。
もう何個目のアルバイトだったんだろうか。覚えている限り書き出すが
郵便局
引っ越し屋(個人的にはこれが一番辛かった)
ファミリーマート
・ドトール
・東京ドーム
・ロッテリア
・飛行機清掃
・空港飲食店
・荷物仕分け
・外国人アンケート調査員
・結婚式場

本当に今だから言えるがそれぞれに意味がないことがなく今でもあっこの時の経験があったなと思う時もある。何より、この様々な業種の働いている方の気持ちがわかったのが大きかった。
自分は何をすれば良いのか。何をしたいのか。興味があることは何なのか。本当に時間がある中で考えることができたのだと思う。ここですんなり考え方が腹に落ちてきた人がいた。
「挫折は過程、最後に成功すれば挫折は過程に変わる。だから成功するまで諦めないだけ。」
この言葉の生き方を真似た。全て真似した。今思うとこの経営者のことを当時日本で一番理解しているんじゃないかくらい追っかけた。どんな考え方なのか。なぜそんなことを発言したのか?それはあえてなのか?気がつくと、そうだ、彼に手紙を書いてみようと思った。
夢を持つことの大切さ。それはパイロットを目指すときに肌で感じた感覚だった。
夢を持つと何も苦しくならない。苦しいことでも乗り越えられた。
夢を持つことそれをもっと世界中で広めたい。
そして野村克也さんの言葉である。『財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上なり。 』この言葉を伝えた手紙と共に、世界中で行いたいことを資料の知識なんて何もない男が、一生懸命にまとめて手紙を出した。手紙を出す、デメリットなんて自分には何もない。とにかく出してみよう。

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2016年4月、湘南ベルマーレvs鹿島アントラーズをスタジアムで見ていた。その帰りは平塚で一杯飲んで帰ろうと思っていた。
何気なく入ったバーでビールを飲んでいた。急に一件の見知らぬアドレスから連絡が入った。
その手紙を出した経営者から一度話を聞いてみたいとのことだった。びっくりした自分もいた。でもこれは行くしかないと思った。
最短で行ける日程を調整し、海外へ飛んだ。ゴールデンウィークの一番高い航空料金だった。
そして実際に会った。話した。何が起きているのかわからなかった。そして話はアフリカということになった。

実際に自分自身がアフリカへ行くことになったのだ。自分で決めたことだった。
以前から、日本でボランティアをしていてアフリカには興味を持っていた。でも行くとなると相当の勇気が必要だった。
でもやるしかなかった。就活もろくにせず、パイロットになれなかった、そして社会経験もない男が急にアフリカへ行くことになった。お題はとにかくビジネスになりそうなことを探す。

何から始めれば良いんだろう。その時に備えていたのはとにかく動くこと。可能性のありそうなところには全て行く。現地の日本人の知り合いはどこにも、誰もいなかった。日本でもまずはアフリカに関わりがありそうな人に連絡して聞きに行ってみる。
初めて返信をもらってお会いした方から、後日メールで、アフリカ云々に関わらずまずはビジネスマナーからお勉強された方が良いと思います。と。それまで社会の社の字も知らなかったので、名刺を渡すことさえままならなかった。当時の資料はパソコンを触り始めたばかりの人が作ったレベル。相当酷かった。
そして初めて行くアフリカのルートも全部自分で計画、作成。ザンビア?隣はボツワナ?聞いたことないな。でも外務省が出しているレベルは安全そうだから行ってみるか。そんなノリだった。バスのルート、航空券、ビザの確認。とにかく会えそうな人にはメールを出してみる。現地の大使館、協力機関、アフリカに行く前にアフリカのイベント。
この時に覚えたのは自分自身に向けて、ウダウダ言ってねーで動け。そうなると意外と返信があったり、イベントではザンビアですか??知り合いいるので繋ぎますよーとの運だったり。そんなこんなで出発の日になり、ザンビア行きの飛行機に乗った。
自分自身良かったのは、飛行機が好きだったということ。パイロット目指していた人にとって、飛行機に乗ること自体は苦にならない。乗り継ぎで到着まで約24時間。楽しかった。
現地で英語で何とかしようとする。わからなければ、笑う。この時に勉強したのは、あっ英語って意外と通じるんだということだった。正しい文法、言葉ではなくても、何とかなる。根拠のない自信がこの時に少しついたような気がした。
とにかく動く。誰にとかではなく、とにかく可能性がありそうなら人に会う。そうしていると、こういう会い方はダメだったなとか、誰に会うべきかという部分が、少しずつわかってくる。紹介してもらって、会い、また紹介してもらう。それの連続。会う人がいないのであれば、とにかくアフリカの知らぬ地を歩いてみる。そうして自分に少しでもヒットしそうな場所を見つけて、そこで見知らぬ人に声を掛けて、話す。そこからまた広げてゆく。
アフリカで何より良いのは日本人は目立つということ。話しかけて嫌がる人はほとんどいない。向こうはおっ、金持ちが来たという認識なんだろうがそれでも良いので、話すしかなかった。考えて動くというよりも、最初は本当に泥臭く動くということ。連絡がなければ、ごめんくださーい的な感じでオフィスに訪問。でもそれから考えることができるようになっていく。これは多分アフリカではなくても、世界共通。考えて動くというのはとても高度で、そんなレベルには達せていない。だから動いてから考えるというのがいつでも、今からでもできること。これは今でも実践するようにしている。そして続けてゆく。

そしてその後もアフリカの訪問は続いた。当然ながら行く場所が全て初めてで全ての国に行ったことがないので、知人もいない。紹介、会う、紹介、動くの連続。
1ヶ月で7カ国を回った時もあった。ザンビア・南ア経由・ボツワナ・南ア経由・ケニア・ウガンダ・ルワンダ・ガーナ・セネガル、各地を大体2泊3日ペースで約1ヶ月。予防接種は本当に最低限の黄熱病のみ。(これはこれから行く方はちゃんと打ったほうが良い。)自分自身よく体調を崩さなかった。

そして2017年最終的にはウガンダに行き着いた。

1通の手紙から人生はアフリカへ動き出すことになった。ここから始まったのは現地での法人立ち上げから・仕事・生活
合計約2年、とにかく結果を出そうと必死だった。現地での会社は日本人は1人で責任者、そして何よりも自分で決めたこと。
そして突然ある日、身体も、心も、何も前に進まなくなった。誰かに会うことも嫌になってしまった。電話さえ厳しかった。
だから、多くの人を裏切る結果となった。いや、裏切るまでもいっていなかったかもしれない。
だからこそ、想いが消えなかった。日本にいても、仕事をしてもこのままで良いのか?という自問自答の日々。夢もある。
アフリカを中心に物事を考える日々だった。今の自分に力があるのだろうか?そう言われてみるとその答えはわからない。
2018年の9月に帰国して3年ちょっとが経った。この間に経験してきたことも無駄ではない。
一度、アフリカに関わったものはアフリカに魅了される。なぜだか、アフリカが消えなくなる。アフリカの亡霊である。
そのアフリカの亡霊の力を、言葉で説明できるほど、まだ何もできていない。約束したことを何も果たせていない。
フリーターからパイロットを目指し、手紙からアフリカに行き着いた。これまで失敗ばかりだった。これからも失敗するだろう。でも動き続ける。知らないことだからこそ努力をする。
その亡霊の真の姿を、追い求めて理解するチャレンジをアフリカの大地のスポーツで、し続けたいと思っている。

Sports for Better

#創作大賞2022


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