ヤンキースの5番を空振り三振に仕留めた、マリリン・モンローの記録と記憶(3)GAME OVER
アル・パチーノが演じた《ゴッドファーザー》=ドン・コルレオーネが象徴するように、シチリア男の気質は、概して《亭主関白》なのだと云う。そのシシリーの血は、マリリン・モンローの亭主、ジョー・ディマジオにも脈々と流れていた。
ジョーは新婚旅行の三年前、つまりユニフォームを脱いだ1951年オフの日米野球に、MLB+パシフィックコースト選抜チームの主軸として来日している。大熱狂の渦中にプレーし、主に斬り込み隊長として一番を任され、独特の広いスタンスから、2本の豪快な本塁打を放ち、センターの守備でも36歳とは思えぬ俊敏な動きを見せ、右へ左へ、広い守備範囲は健在だった。日本の野球ファンは、ディマジオの放つ火の出る様な弾丸ライナーに見惚れ、球場の外でもアイドル化した伊達なホームランアーチストに、民衆とマスコミは殺到した。
日本国民は再び、クレイジーなまでの熱狂をもって来日を迎えてくれるだろう、とビジョンを描いて、ハネムーンの旅先は”JAPAN”と即決したわけである。自分を”GOD”の様に崇める野球狂国の絶叫を聴かせれば、妻・マリリンは永遠の愛と忠誠を誓い、彼女のリスペクトを終生わがものに出来るはずであると、ドンは、したたかなシナリオを描いたのかもしれない。
結果、期待を上回る”パニック”と言っても過言ではない大混乱が、彼らを出迎えた。しかし、そのニッポン狂想曲のステージ上に呼ばれたのは、彼ではなく、彼女であった。亭主の想定は狂い、ニッポンの民衆はミセス・ディマジオにばかり猛り狂い、次第に、ドン・ディマジオの正気も狂ってきてしまう。癇癪玉は、やがて、バレンタインを前日に控えた広島の夜に、破裂してしまうのである。
野球は「チャンスの後にピンチあり」と、よく言われるが、佐山和夫さんは、この夫婦の幸せの最高潮は、博多のレストランを、そっと裏口から出て、誰にも気づかれずに、手を繋いでネオン街を歩いた中洲の夜の散歩ではないか?と書かれている。が、僕の見解では、その翌朝、板付空港から岩国基地に向かう日航機から見た箱庭のごとき瀬戸内の島々に、マリリンが黄色い歓声を挙げる機上の喝采や、広島に到着後、厳島の海に浮かぶ大鳥居を宮島口に眺めて感嘆の溜息を漏らし、感涙を溢した場面にこそ、新婚ホヤホヤのスウィートなハイライトがあった、と感じている。そしてその直後、やはり、大ピンチが訪れる。OMG...
福岡で国鉄スワローズと洋松(松竹)ロビンス、広島でカープ、甲子園でタイガース、奈良でドラゴンズ、最後に明石でジャイアンツ、とディマジオは、米球界の相棒二人を伴って、セ六球団の春季キャンプを巡回コーチして周った。道中、普段着での指導ながら、さすがに野球場だけは旦那の仕事場、のはずであった。一方、国内及び朝鮮半島の米軍(国連軍)や負傷兵の慰問は、ワイフの任務であった。
ハネムーンにも関わらず任務?そこに落し穴が存在した。ヒーロー・ヒロインらしい御披露目ジャパンツアーを組んだ事が、ディマジオが犯した取返しのつかない痛恨のエラーであり、新郎としては、運命の墓穴を掘った、としか言いようがない。
岩国基地で、米軍関係者やカープ選手団、後援会の歓迎を受けると、マリリンは「わたしは野球が大好きなので、夫がコーチするカープの広島県営総合球場にも、必ず応援に参ります」と何の悪気も無く、無邪気な笑顔で愛嬌を振りまいてみせた。岩国も広島も萌えに萌え上がったであろう。が、唯一、そのコメントを苦虫を噛み潰したような表情で聴いていた主賓が、すぐ隣の旦那であったことは、言うまでもない。
バレンタインの朝、旅館の中庭に佇んで、一時間近くシクシク泣いているマリリン・モンローの姿が目撃されている。前日13日の土曜日、約束を守って総合球場に現れたモンローを、無論、黒山の人だかりが囲んだ。後援会が、大きなシャモジを手渡し、縁起が良いとされるその厳島のお土産を手にして、大喜びするマリリンの笑顔が眩しく輝いた昼下がりであった。その光景を、ディマジオは我慢の限界を超えた先に、見て見ぬフリをせざるを得なかった。
ディマジオは極端な三振数の少なさが物語るように、ミリ単位のテクニックを極め、一ミリの大河を見極め、ヒットに出来るような達人であった。が、同時に、そのプロの流儀は、受け流すべき味方のミクロなミスや、自らに降って沸いた雑念を放っておけないヒステリックな女々しさをも孕んでいた。ヒロシマで迎えたバレンタイン前夜、ジョーは、マリリンからデッドボールでも喰らったかのように激昂して、新妻を叱責する。マリリンは泣きながら、目の前の下郎新郎を空振りに仕留め、”STRUCK OUT(三振)”を宣告すると、自らもお役御免《GAME OVER》で夫婦のマウンドを降りた。(続)