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ドジャースはニューヨークからやって来た⚾️42Jackie Robinson Day

1947年4月15日に黒人初のメジャーリーガーとして、ジャッキー・ロビンソンがブルックリンドジャースにデビューした日を記念して、1997年からMLB全球団が彼の背番号42番を永久欠番に指定した。黒人が多く暮らすマンハッタンのハーレム地区にオフィスを構えるビル・クリントン政権下の影響力も相まって、ジャッキー・ロビンソンと42番は、再び大きな陽の目を見ることになった。

2004年4月15日のゲームからは一日限定で全選手、監督、コーチが42番を背負ってベンチ入りすると云う、ファッションシーンとしても圧巻の光景が全米のボールパークに広がるソウルフルな記念日となっている。尚、コロナ禍で開幕が7月23日にまでズレ込んだ2020年のシーズンでさえ、1945年にブルックリンドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーとジャッキーが初めて会談した8月28日を以てジャッキー・ロビンソンデーが開催された。この二人の御仁の出会いが有ったからこそ、ハンク・アーロンもロベルト・クレメンテも、そしてワシらのアルフォンソ・ソリアーノも、後に続けたのであろう。中には、なんちゃらオドーアみたいに、道をけがす選手もドサクサに紛れてはいますが。

私がニューヨークに暮らしていた2006年〜2008年頃にはまだヤンキースの守護神、マリアーノ・リベラが背番号42を背負っていた。42番が永久欠番に規定される以前から背負っていた選手には、例外的に着用が許されたからである。パナマの英雄、リベラの背中はピンストライプに浮かび上がる42番のユニフォームを脱ぐ最後の登板を終えるまで、常に誇らしげに映った。

白人以外の人種にベースボールを生業として生きる道を切り拓いた、と云う観点では、その功績を讃え、NPBでもジャッキー・ロビンソンデーを開催して欲しい、と毎年、この時季になると感じますな。

1950年、ブランチ・リッキーからドジャースの経営を引き継いだのはチームの顧問弁護士を務めていたウォルター・オマリーだった。彼は当初、老朽化した本拠地エベッツフィールドを建て替えるべく、ブルックリン内に土地を探していたが、ニューヨーク市当局と折り合わず、やむなく移転を決意したようである。そうして1958年、ブルックリンドジャースはロサンゼルスに、ジャイアンツはサンフランシスコに移転してニューヨークを去る。ニューヨークには1962年、新たにクイーンズを本拠地に据えてメッツが誕生した。メッツのユニフォームは、ドジャーブルーの青とジャイアンツのオレンジをチームカラーに配し、ドジャースやジャイアンツを愛したニューヨーカーの失恋恋煩いを引き受けた形で身に纏ったわけである。ワシが暮らしていたクイーンズのエルムハースト地区から本拠地のCITI FIELD(当時はシェイスタジアム)迄は、地下鉄七番線(セブントレイン)の真下を貫くルーズベルトアベニューを歩いて通える距離だったので、暇さえあればミラクルメッツの余韻を残すシェイスタジアムに散歩に出掛けた。そこでは必ず誰かしら、ブルックリンドジャースのロゴBが刺繍されたキャップを被ったメッツファンの姿が目にとまった。松井稼頭央さんの特大フィギュアも在りましたぞ。

さて、ワンポイント野球英語は、当のdodgerです。野茂英雄から大谷翔平に至る日本人ドジャー軍の系譜にはワシらの黒田博樹やマエケンも名を連ねていますから、メジャー屈指の金満球団とは云え、憎めない球団ですな。
ドッジボールにも使われるdodgeは【身をひらりとかわしてよける】と云う語意があります。
ジャッキー・ロビンソンが活躍したブルックリンのエベッツフィールドは既に、そこに存在しませんが、ワシらのマツダzoom2スタジアム並に3万2000人のキャパシティーを誇りました。当時の球場へのアクセスとしては、市民の足として、街を路面電車が走っていました。ブルックリンの人混みのド真ん中をトローリーが行き交い、人々はそれをよけるようにして通りを往来していたわけです。その街の風景を反映させた土着なネーミングとして、ドジャース、つまり【ひらりと身をかわす者たち】と命名されたと伝えられています。LAの街中には路面電車は走っていませんが、ドジャースタジアムの広大なパーキングを歩く時には、やはり、それなりにクルマに注意を払って歩かねばなりませんので、ファンの皆さまにとっては、やはり、ドジャースかもしれませんな、笑笑。

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