ヤンキースの5番を空振り三振に仕留めた、マリリン・モンローの記録と記憶(1)”STRUCK OUT…”
まえがき、
このnoteは、佐山和夫さんの著書『ディマジオとモンロー 運命を決めた日本での二十四日間』(河出書房新社)や、筆者所有の日米野球雑誌etcに、推察や憧れを交えた《野球浪漫解説》である。そんなジャンルあるのかミステリアスですが...
「三振(struck out)だったわ…」
振り返って、そう洒落ながら笑ってみせたマリリン・モンローと、元ニューヨークヤンキースのジョー・ディマジオとの初デート対決は、1952年3月4日のディナーに実現した。その後暫く、友人達に冷やかされる度に、モンローは「三振」を連発して、ディマジオを野次って茶化したと云う。
メジャーリーグでは、多少の雨では雨天中止が宣告されない。その夜も、19時プレイボール予定だったハリウッド界隈のイタリアンレストランに、マリリン・モンローが姿を現し、テーブルに着いたのは、そろそろ順延が囁かれ始めた21時頃だった。
ウェイティングサークルで待ち侘びた色男が、ようやく破顔一笑、打席で迎え撃つ。それから、約二時間に渡って繰り広げられた世紀の色物対決の晩餐は、概してディマジオの「三振」だった、と云うわけである。
『ゴッドファーザー』シリーズの舞台、シシリー島の漁師だった父・ジュゼッペと母・ロザリー夫妻が移民したカリフォルニアの工業都市・マーティネズの煙ったい空に、1914年11月25日、五人兄弟の四男としてジョー・ディマジオは、おそらくカンツォーネの如き甲高い産声を上げた。学業に打ち込む経済的バックグラウンドにこそ恵まれなかったものの、彫りの深いラテン系の美貌と、モデル並の抜群のプロポーションに加え、海の男の血を引く強靭なフィジカルとメンタルに恵まれ、そこに地中海に降り注ぐ太陽のようにまばゆい必殺スマイルが駄目を押し、オマケに、美女のお尻を軽快なフットワークで、波止場まで追っかけまわすような※アズーリの血までもが流れていた。
※イタリア語で《青》を意味する。地中海を象徴する真っ青なジャージを纏ってピッチを走り回るサッカー・イタリア代表チームの愛称としても愛用される。
太平洋戦争開戦前夜の深い闇を力強く斬り裂き、匍匐前進する米軍人に、ハングリーさや屈強な肉体が求められた時分である。スタジアムのカクテル光線に照らされ、華々しくベースボールに身を捧げる選ばれし身ながら、一寸先の戦場に赴く米予備軍にふさわしいフィジカルを備えたプロ野球選手にも、刻一刻と、今晩の一球を明晩の手榴弾に持ち替える心の準備が迫られた。実際、ディマジオは、戦地に赴く任を免れはしたものの、戦時中は終始、陸軍に仕えた。
ベーブ・ルース無き後のヤンキースに、ルースとは対極のプレースタイルとファッションスタイルのジョー・ディマジオが君臨し、ニューヨーカーのみならず世界中の野球ファンを魅了し、女性ファンの黄色い歓声をも独占した。磊落奔放なベーブが引退し、ジョーの名声と美声、美顔を球団の前面に押し出し、クールにポーズを構える彼のベースボールカードのイメージを、そのままチームのイメージにプリントする好機に恵まれたヤンキースは、紳士たるダンディズムを、シックなチームカラーに反映させ、球団のクラシックな伝統として、未来に伝承させていった。昨今では、デレク・ジーターがその最たる継承者であった様に映る紳士録のラインナップは、まず洒脱な風貌の伊達男、ジョー・ディマジオが先頭バッターで登場して幕を開ける、と云う流れがオーソドックスであろう。
摩天楼に打ち上げられし白球を懸命に追い、打席から乾いた快音をブロンクスに響かせ続けたディマジオは、第二次大戦に因る三年間の中断を挟む13シーズン1736試合に渡って、361本のアーチを掛け、通算2214本ものヒットを重ね、生涯打率325で、首位打者・ホームランキング・打点王のタイトルを各2度獲得する偉業を成し遂げ、36歳でヤンキースのユニフォームを脱いだ。彼がピンストライプに背負った5番は、ベーブ・ルースの3番、ルー・ゲーリッグの4番と仲良く肩を並べる横並びの永久欠番として、ヤンキースの記録と記憶に、永遠に刻まれることとなった。
アル・カポネの漁港から夜逃げするように漕ぎ出したディマジオファミリーの船は、ハドソン川で大漁旗を受け取り、自由の女神に祝福されながら、ヤンキースが勝ち獲った27本ものチャンピオンフラッグの傍らで、絶えずその順風に靡き、シチリア発アメリカンドリームは、果たされた、と云うわけである。モンローには「三振」と揶揄されたディマジオであるが、生涯喫した三振の数は、本塁打数361を僅かに上回る369回と云うから、驚異的なコンタクト率と卓越したバッティング技術を物語っている。何かの間違いではないか?と目を疑う圧巻の比率である。あと1000回多く三振していた方がノーマルに感じるミニマルな大記録である。
1948年にキャリア最後のホームラン王に輝いた三年後、ディマジオは惜しまれながらバットを置いた。その1951年のシーズンは、ガス・ザーニアル(※フィラデルフィアアスレチックス)と云う選手が、33本のホームランを放ち、アメリカンリーグの本塁打王に輝く。その年の開幕前、ザーニアルが在籍していたシカゴホワイトソックスは、カリフォルニア州パサデナでスプリングキャンプを張っていた。その好日、このチームの顔・ザーニアルに花を添えて、球団の広告塔に起用されたのが、男性誌の折込グラビアの内側から、陽の当たるオモテ表紙に活躍の場を移すチャンスを窺っていた、目下、売り出し中の新人モデル、マリリン・モンローである。
※ザーニアルは開幕後、四月末にホワイトソックスからアスレチックスにトレードされた。
球界の花を自認していたディマジオは、この敵軍スナップに写るマリリンに瞬殺され、同時に、好敵手・ザーニアルには焦げつくような焼き餅を焼いた。その球団宣材写真の仕掛人が、ザーニアルの代理人を務めていたデイヴィッド・マーチである事を本人から聴き出すと、すぐさま電話を掛け、マッチングの御膳立てを熱望した。敏腕エージェント・マーチにはお安い御用だった。マーチと彼の恋人を伴って、ジョーとマリリンの初顔合わせは、ひな祭りの余興とでも言う様に、3月4日、Wデートの形で叶えられたわけである。
果たして、ハリウッドの目抜き通り・サンセットブールバードに夜の帳は降りた。が、しかし、電撃的で衝撃的で刺激的に映った世紀の初対決は、多忙なマリリンの遅刻が二時間の水を差したとは云え、冷めたピザにタバスコも掛けずにつつき合うように、一向にヒートアップしないまま、ピリっとしないまま、ビビビっと来ないまま、23時、残念なまま、ゲームセットを迎えた。あえなく「三振」を喫した米球界を代表する伊達男であるが、挽回のチャンスを窺って、翌日から来る日も来る日も、アズーリの血が騒ぐままに、マリリンに電話攻勢を仕掛ける。が、ことごとく空振ってしまう。見逃し三振ではなく、せめて空振り三振を続けるジョーのパッションは、果たして実るのか? (続)
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