優勝力士に贈られる麗しいボヘミアングラスの産地・チェコの温泉郷カルロヴィヴァリへ行こう!相撲界の歴史に纏わる外偉人レコード③
ボヘミア王・後の神聖ローマ皇帝・カレル四世(1316-1378)は、そこに湧いていた泉を偶発的に発見した、と言い伝えられている。その名を冠してカルロヴィヴァリ《カレルの温泉郷》と名付けられた。それから500年の時を経て、ヨーロッパ中の貴族や芸術家達で湧き返っていたその郷に、ルードヴィヒ・モーゼルと名乗る彫刻家がクリスタルガラスの工房を創業した。
千秋楽結びの一番を終えた五月場所、両国国技館の土俵にもモーゼル社の麗しいボヘミアングラスが届けられた。チェコが世界に誇るアートを手中に納めたのは、幕下付け出しから僅か七場所の電光石火で賜盃を抱いた、2000年石川県河北群生まれ、23歳の大の里泰輝だった。
チェコ(スロヴァキア)友好杯は、昭和45年(1970年)春場所千秋楽、14勝1敗の成績で自身31度目の優勝を飾った昭和の大横綱・大鵬幸喜に、初めて贈呈された。チェコスロヴァキアは当時、まだ《東欧》と括られていた時代の社会主義国であった。一方、大鵬の父はウクライナ出身であり、いま振り返ってみれば、相撲界から世界平和を象徴する打ってつけのレジェンドの手に、先ずはその因縁のボヘミアンカップが渡った、と云うことになる。
大鵬の父、マルキャン・ボリシコは帝政ロシア時代のウクライナ東部ハリシコフに生まれ、その後、樺太に入植したロシア系ウクライナ人と云うから、歴史の綾を感じさせる。大鵬は2001年、ウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が設立されたのを機に、翌年、ウクライナに父の郷里を訪ね、自らのファミリーヒストリーを辿り、自身のルーツとスラブの凍土に息づいた祖先に想いを馳せながら、そこに暮らす自分と瓜二つの地元民達と、親交を温めたと云う。その後、亡くなるまで、大鵬はウクライナのみならず、露鵬などロシア人力士の相撲界への進出にも、多大なる尽力と献身を捧げた。
1940年5月29日、その樺太(現在のサハリン州ボロナイスク市)で、父・マルキャンと日本人の母・納谷キヨの間に、大鵬は生まれている。イヴァーン・マルキャノヴィチ・ボリシコと命名されたその美男子は、しかし、時代の荒波に翻弄され、5歳で母方の納谷幸喜に名を改めることになる。幸喜はやがて、その荒浪関をも、得意の左四つから掬い投げに仕留めるように《巨人・大鵬・玉子焼き》と謳われる時代の寵児に成長して、ニッポンの団欒に大きく貢献していくことになる。
大鵬が、初めてボヘミアングラスに勝利の美酒を注いだその数年後、赤ヘル旋風に湧く中流家庭に、僕は生まれ落ちた。その熱狂の余波は《カープ・高見山・スクランブルエッグ》とコンテンツを変えて我が家の団欒にも継承され「二倍!二倍!!」の豊かさを伴った幸せな幼少期をもたらしてくれた。
プラハで通っていたチェコ語学校の教室で発表する為の《相撲の歴史と外国人力士》に纏わるプレゼン資料を作成する中で、憧れだった高見山大五郎(ジェシー・クハウルワ)やチェコ人力士・隆の山俊太郎(パヴェル・ボヤル)並びにチェコ共和国友好杯について紹介しよう、と企画を練っていた。その段階で、僕はその瀟洒なボヘミアングラスを制作しているモーゼル社と、そのアートを産出しているボヘミア王の温泉郷・カルロヴィヴァリのリゾートに浸り、その硝子に刻まれし粋な職人芸に触れ、王様の湯に癒され、ついでに喉から手が出る程、地ビールを呑みたくなってきた。
その後、無事にチェコ語の認定試験を通過したお祝いとお礼も兼ねて、アニチュカと云うチェ娘を誘って、僕は2泊3日の温泉旅に出た。アニチュカは《鉄の街》オストラヴァ出身のスポーツトレーナーで、コロナ禍、僕がプラハで暮らしていたペンションの屋根裏部屋に暮らしていた。常日頃からガサツなチェコ語をお願いしなくても教えてくれる親切で面白い、チェ娘らしいチェ娘だった。
カルロヴィヴァリのバスターミナルから、温泉街とモーゼル社のギャラリーとは真逆の方向に在る。チェコの養命酒とも呼べそうな酒蔵《ベヘロフカ》のミュージアム前を通過すれば、もうそこは湯煙漂う温泉街。
一方、柔らかな女性的曲線美に撓みながらも、男性的な深い彫にその美を落とし込めた麗しいボヘミアンガラスに出逢いたければ、その温泉街にひとまず背を向けて、30~40分ほど足労しなければならない。
道中、サラブレッド好きの私の前に、大きな競馬場がお目見えした。やはり、旅の空はなるべく歩いた方が、こう云う思いがけない景色に出会える。
厳冬のチェコのターフにもやがて春が訪れ、競走馬が一完歩また一完歩、この馬場を駆け巡る牧歌的な風景が見られるのか..,と瞼に想い浮かべながら、僕は《MOSER》へ歩を進めた。
自国の誇るアートに滅多に関心を寄せない呑ん平・アニチュカが、僕のカードで払ってあげた《ベヘロフカ》ミュージアムの入場料で、ひたすらタダ酒を浴びて、気分良くヘベレケに酔って満足している事を期待しながら、僕は独りのんびり《MOSER》の館を訪れた。アニチュカを引き摺って来ようか、とも思ったけれど、やはりアートにどっぷり浸る時に、アルコールにどっぷり浸る同伴者は要らないのだ、笑。案の定、ギャラリーに一歩足を踏み入れると、まばゆくも嫌味のない色彩を瑞々しく放つクリスタルガラスが、一斉に、一人で遠路遥々やって来たこの丸眼鏡の短足日本人を歓迎してくれているように、煌々と光り輝いているではないか...言葉は要らなかった。
すっかりアニチュカのことは忘れていた。
ボヘミアンマジックの煌めきに心奪われたまま、ギャラリーから曇天の下に出ると、アニチュカからWhaysAppに恐怖のメッセージが入っていた。
「おい!とっくの昔に《Becherovka》には飽きたから、地下の居酒屋《Karel Ⅳ》でビールを呑んでいるんだぞ!おんどりゃ早く帰って来やがれ!」みたいに下品なチェコ語で喚いている。その寒空はアニチュカの不機嫌を反映しているかの様に、どんよりと暗雲が立ち込めていた。。
居酒屋の在る地下に潜ると、案の定、酔っ払ったアニチュカが、座った目で僕を一瞥するや”PRDELe(ケツ野郎)!”と罵った。上品なチェ娘の場合、通常《お尻》のことは”zadek”とおっしゃるのが当然なのだが、彼女は普段から、勤務先のジムで週四日鍛え上げた鉄壁の《prdel : ケツ》を自慢するレアなチェ娘なのである。鉄の街からヤって来たそんな鋼鉄のチェ娘の尻に敷かれ、尻込みしながら一つ屋根の下で暮らした歳月を、今頃になってようやく懐かしく回想して、広島の空の下、涙ぐんだりしているんですな。。ぐすん。。
お勘定を僕のクレカで一括払いしてあげると、ぶ厚い雲の切れ間から青空が覗いた様に、アニチュカはにっこりと笑みを浮かべた。酔い覚ましを兼ねて、街中いたるところに湧き出ずる温泉を、代わる代わる掬っては飲んで歩いた。当然、温泉水が美味しいわけはないので、せめて、その湯が熱ければ熱いほど飲みやすい、と感じた程度だが、湯煙漂うチェコの温泉街のラグジャリーな雰囲気には、気分よく呑み込まれた。しらみつぶしに蛇口から蛇口へ、七変化するアニチュカの顔色を、いちいち窺いながら、おだてながら練り歩いた。
ちなみに、チェコ共和国友好杯の副賞として贈られる一年分の《Budweiser》は、České Budějovice(BUD)と云う街のチェコ共和国国営醸造所産のビールである。アメリカのバドワイザーは、この街出身のドイツ系移民で創業者のアドルファス・ブッシュが「僕も故郷のBudweiserみたいな、あんな美味しいビールを造りたい」との思いを込めて、オリジナルにあやかってミズーリ州セントルイスで立ち上げたbreweryである。グローバルな相撲界的視点に戻れば《こち亀》の両津勘吉巡査の化粧まわしと美しい筋肉がチャーミングだった戦闘竜(ヘンリー・アームストロング・ミラー)の故郷ですな。
チェコスロヴァキアも相撲界も、ウクライナも高砂部屋も、樺太も昨今の石川県も、過酷な時代に耐えて敢闘し、その中から殊勲の星や、技能を世に贈り伝えて来た。そんな職人の技能と努力の結晶であるチェコ共和国杯のボヘミアングラスが、十五日間の修羅場をくぐり抜け、殊勲の優勝を果たした力士の敢闘を讃え、連綿と贈呈されてきた。両国の友好関係を形作り、その歴史をも刻む為に。
追伸、
お題《ちゃんこは裏メニューに過ぎないこんなソウルフルな相撲部屋ばかりになれば素敵◎》
1.武蔵丸(フィヤマル・ペニタニ)の武蔵川ハワイアン部屋では、ロコモコランチが定番。
2.琴欧州(カロヤン・ステファノフ・マハリャノフ)の鳴門ブルガリアン部屋では、寝る前にたらふくヨーグルトを食べてから就寝する掟。
3.鶴竜(マンガラジャラブ・アナンダ)の音羽山モンゴリアン部屋のメインディッシュは、ジンギスカン。
4.《もしも、隆の山がボヘミアン部屋を創設したならば》弟子達は20歳を過ぎてから、ビールをたっぷり呑んで、その豊かなビールっ腹を武器にメキメキと力をつけ、番付を鰻登りに上げる。遂に優勝を成し遂げると、チェコ共和国友好杯は、悲願の里帰りを果たす◎
※お酒は20歳を過ぎてから。
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