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ヤンキースの5番を空振り三振に仕留めた、マリリン・モンローの記録と記憶(2)Honey and Bitter…

 本名を文字って《ジーン・ノーマン》と名乗ったこともある、と自身語っている。後に全身の毛を金髪に染めて《マリリン・モンロー》と名を改め、一世を風靡する事になるキュートな女の子《ノーマ・ジーン》は、1926年6月1日、ロサンゼルス総合病院の分娩室から、おそらく黄色い産声を上げた。


 母・グラディスは、大手映画配給会社のネガ・カッターなどの仕事をしていたが、大恐慌の打撃を経済的にも精神的にも被り、病院暮らしが続いた。その煽りと※父の身元が判然としなかった事情も災いして、ノーマが肉親と暮らせた時間は概して短い。孤児院や複数の里親の元を、転々と渡り歩く恵まれない幼少期及び少女時代を強いられた。
※2022年のDNA鑑定で、グラディスの勤務先の同僚、チャールズ・スタンレー・ギフォードと判明。

Marilyn Monroe(1926.0601~1962.08.05)

 しかし、そんな境遇に置かれても、ノーマはその逆境の中にささやかな幸せを実感し、自身にも遺伝したナイーブながらも優しいハートを備えた実母を、決して憎まず、その親娘関係に、遺恨など微塵も感じられない。この辺りに、この絶世の美女が、スターダムを素直に駆け上がり、カリスマを孕んで、世界中を虜にし、亡き後、レジェンドにまで昇華された天性が潜んでいる、と僕は感じている。

 クレオパトラやアントワネット、ダイアナが、高貴な手の届かない伝説であったのとは対極に在る。スラムのコミュニティに揉まれ、日給50セントの皿洗いも、笑顔でこなしていた隣のあの娘は、世俗の荒波に翻弄されながらも、やがて、ピンクのビキニを纏って颯爽とサーフボードに乗っ掛ると、沖に出た。その娘は、悠々とその荒波を支配し、鮮やかにくぐりぬけ、見た事もない超絶ビッグウェーブに乗って呑まれて、あっと言う間に去っていった。そして、その娘は伝説になったのである。

きゃ〜〜@@/純白もまぶし〜〜

 「そうよ、だって私、飢えてたんだもん。」
ヌードモデルをしていたのか?などと、イヤらしく問い詰められた際にも、そう実直に白状している。「飢えていた」と言うのだから”I was hungry”ではなく”I was starving”と漏らしたのかもしれない。この殺し文句に、僕の涙腺は崩壊し、直ぐにでもバーガーキングに駆け込み「5WHOPPERs!!」と叫びたい衝動に駆られた(T . T)。同様のリアクションが、ハリウッドから全米を席巻した。

 20世紀フォックス社のプロモーター、ベン・ライオンは、彼女を売り出す際に、ナチュラルブラウンなヘアーをブロンドに染めさせ《MM》で頭文字を粋に揃え、コクがあるのにキレがある生ビールの様に美味しそうな名前を与えた。《マリリン》は、マリリン・ミラーと云う歌手が、ノーマとよく似ていたことから《モンロー》は、母・グラディスの旧姓から、の命名である。そこはかとない母への愛が無ければ背負うはずがないファミリーネームである。当初、マリリン本人は《ジーン・モンロー》を希望したと云う。

念の為、アップはアップだけ(^^;;(アサヒグラフ)

 1941年、ノーマは一瞬のハイスクール時代を謳歌するも、期末試験に落第するや、あっさり中退してしまう。が、唯一、国語(=米語)だけは大好きで、その短い生涯、撮影の合間にも、暇を見つけては読書に熱中していた、と云う。ハリウッドのセット上で、上から目線のプロデューサーやディレクターに大根役者のレッテルを貼られ、ピンキーな役ばかり割り振られ、四面楚歌のプレッシャーに怯えながらも、自他に立向い、自らの吐く一つ一つの台詞の息遣いに、極限のプロフェッショナリズムを注入しようと躍起になった女優魂のポテンシャルは、ディマジオの野球選手としてのスター性同様に、彼らの美貌の内側に、しっかりと天賦されていたわけである。

おもろいのがお好き?

 出逢う直前に現役を退いていたディマジオの勇姿を、モンローは皆目知らなかったが、ディマジオは、男性誌の内側に折り込まれていた彼女を、あるいはチラ見していたのかもしれない。前述の通り、マリリン・モンローが陽の当たる春の野球場に、ハイヒールにショートパンツルックでお目見えし、他球団の主砲と収まった広告写真を見るや、刹那、ジェラシーを激らせ、その仕掛け人を懐柔して、マリリンとの対面を実現させる。そして、そのお見合いの印象を、彼女は「三振だったわ」と皮肉ったのである。翌日から2週間、電話魔と化したディマジオの攻撃は、しかし、空振り続きであった。アメリカやシチリアに【男は、引き際が肝心】などと云う男の美学が在るのか?は知らぬが、ディマジオの甲高い誘惑のスウィングは、それからぷつりと鳴り止んだ。

ライバル・ザーニアルとマリリンの2ショット。
ディマジオのジェラシーは燃え上がった。

 しかし”ストラックアウト(三振)”ディナーから、3週間が経った頃、今度は、マリリンの方からジョーに電話を掛ける、まさかのカウンター攻撃を契機に、伊達男の情熱的な恋は、棚ぼた、実ってしまう。アメリカでは、潔いあきらめなど、単に無駄であった。そこから約二年間の交際を経て「単なるお友達です」などと白白しくパパラッチを煙に巻いていた2人は《隠し球》を決める様に、サンフランシスコ市役所で五分間の結婚式を挙げると、その場で婚姻届を提出して、正式に結ばれてしまう。

まさか、マリリンの反転攻勢が始まるとは(^^;;

 1954年1月29日、彼らはハワイを経由してJAPANへのハネムーンに飛び立つのである。が、せっかくの新婚旅行が、お忍びではなかったところが痛恨であった。自身の野球選手としての名声が、如何に外の世界にまで響き渡っているのか、ディマジオは新妻に見せつけたかったのであろう。ニッポン珍道中、要所要所で失策と嫉妬を重ね、空振り三振続きのジョーの目論見は、完全に狂う。ベンチで温かく見守るワイフにばかりメディアやファンが殺到し、お呼びでない自身の立ち位置に、終始、苛立ちを隠せなかった。ハネムーンの月光に照らされた甘く幸せなはずの旅路に、やがて”GAME OVER”をまねくビターな墓穴を、自ら着々と掘り進めていることに、無論、気がついてはいなかった。(続)

Have a sweet honeymoon@@/


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