第12話・1933年 『ベルリン・オリンピックで実施決まる』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」
ベルリン・オリンピックで(1936年)でのハンドボールが男子11人制によって行なわれると決まったのは1933年6月の国際オリンピック委員会(IOC)総会(オーストリア・ウィーン)だ。
開催地としてベルリンが決定したのは2年前だが、その時ハンドボール実施を打ち出すには至らなかった。開催地選択競技として“確実視”されながら持ち越されたのは、ドイツの総統、アドルフ・ヒトラーが当初、大会規模の拡大に消極的だったからだ、と伝える文献がある。
日本にも「ベルリン・オリンピックでハンドボール」のニュースは伝わり、神戸で在留ドイツ人を中心にハンドボールに親しんでいた日本人が「ベルリンをめざそう」と壮大な夢を抱くが、現実とはならなかった(1935年1月)。
後年に刊行された兵庫県体育協会による「ハンドボール競技の栞(しおり)」はこのグループによって生まれたチームを「我が国最初のハンドボール団体・『神戸ハンドボール倶楽部』」と明記している。
国際アマチュアハンドボール連盟(IAHF)の加盟国は17を数えるまでになり10ヵ国近くがベルリンへの参加を準備したい、としていた。
急務は競技ルールの検討であった。“初版”から6年が経ち、ヨーロッパ各国は改正すべきポイントを指摘していた。とくに女子11人制はフィールドのサイズが男子と同じ広さでなじみにくいとされた。
1930年プラハ(チェコスロバキア)で開かれた第3回ウィメン・ワールドゲームズに初採用されたハンドボールは2ヵ国のエントリーに終わり、地元・チェコスロバキア伝統のハンドボール類似競技「ハゼナ」の部には3ヵ国が集まっている。1934年ロンドンでの第4回大会では、サイズの小さい「ハゼナ」だけが行なわれた。
第3回大会の国際ルールによるオーストリア-ドイツ戦(5-4でオーストリア)は史上初の女子公式国際試合である。
IAHFはベルリン・オリンピックで女子初のチームスポーツとしてハンドボールの実施も期待したようだが、ならなかった。
第13回は8月5日公開です。
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