第50話・1971年 『オリンピック出場の感激つかむ』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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悲願がなった。全日本男子がミュンヘン・オリンピックアジア予選(11月14~28日)で韓国、イスラエルとの2回総当たり戦を4戦全勝で突破した。開幕戦(東京)、イスラエルを15-4で降す好スタートを切り、大阪での韓国戦を20-9、名古屋でのイスラエル戦を18-7と好調に3連勝、代表権獲得に王手をかけた。
大会第5日(東京)、イスラエルが韓国を破り、日本選手は最終戦を待たずこの試合を見ていた観客席(東京・駒沢屋内球技場)での感激となった。
チームの順調な強化に比べ予選開催は年初からもつれ、韓国が日本開催を了承したあとイスラエルとの交渉はホーム&アウェイを譲らぬ相手の主張でたびたび暗礁に乗りかけた。イスラエルはホームゲームでの収入がなければ遠征費用が調達できないとし、この方式が“常識”の国際ハンドボール連盟(IHF)も日本協会に対応を求め、エントリーの締め切りが延長されるなどした。6月にようやく日本がイスラエルの東京までの往復旅費の40パーセントを負担することでまとまり(最終決着は7月)、韓国への旅費負担は30パーセントに収まっていると日本協会は発表した。
強化と予選への盛り上がりを図って、4月にヨーロッパ・クラブチャンピオンのVfLグンマースバッハ(西ドイツ)、9月にスウェーデン代表を招き、全日本はグンマースバッハには22-11で勝ったが、スウェーデンには13-18、13-15、13-11、6-11の1勝3敗に終わった。
両シリーズで注目されたのは個々の全日本選手への関心だ。中でも右サイド(RW)野田清(大同製鋼、現・大同特殊鋼)へボールが渡ると大声援が沸く光景は、日本ハンドボール界初めてと言ってよかった。野田は立教大学時代から独特のプロンジョンシュートを身につけていたが、さらにヨーロッパ長期合宿(1969年)、フランス世界選手権(1970年)でゴールエリアに身を躍らせ空間で逆立ちするようなフォームからの攻撃を編み出した。
マスコミの関心も高く、国内では報知新聞(現・スポーツ報知)がアジア予選前に初めてアイモ改造機で連続撮影「倒立シュート」と名づけて大きく報道、予選突破後はテレビ各局が超高速度カメラで特写し人気をあおった。「ムササビシュート」の異名はまだついていない。
12月、世界女子7人制選手権が6年ぶりにオランダで開かれた。日本は3回目の出場、9位に終わったが、エース垂水秀代(熊本・大洋デパート)が4試合21ゴールをあげ得点王に輝く。日本人選手で初の快挙、女子のトップゾーンに久々の活気を呼び込んだ。
第51回は9月12日公開です。