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第71話・1992年 『オリンピックに日本人レフェリー』

日本にハンドボールが伝来して100年になるのを記念した1話1年、連続100日間にわたってお送りする企画も終盤です。21世紀に入っての20年間は“あすの課題”でもあります。大会の足跡やチームの栄光ストーリーは少なくなります。ご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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バルセロナ・オリンピック第3日(7月29日・グラノジェルス市ハンドボールパレス)男子1次リーグ、この日の第5試合で、島田房二、後藤登レフェリーが対戦するスペイン、エジプトをそれぞれ先導し、入場してきた。日本人レフェリーのオリンピックデビュー、日本ハンドボール界の宿願がなった瞬間である。選ばれた12ペアのうちヨーロッパ以外は日本ペアだけ。3試合を担当した。

競技面では東ヨーロッパ圏の激動で「ハンドボールの世界地図」が塗り替えられるのは必至だった。

大会前、国際オリンピック委員会(IOC)は“新国家”の資格について検討、旧ソ連は「旧ソ連合同チーム」(EUN=フランス語のEquipe Unifieeの略)の呼称で参加を認めた。「独立チーム」の呼称で参加する「新ユーゴスラビア(セルビア、モンテネグロ)」の扱いには慎重で、結果的に団体競技は受け容れず、バルセロナ郊外で待機していた同国ハンドボールチーム(男女)は帰途につく。ドイツは1990年10月に統一がなり、男女揃っての参加を決めていた。

「新地図」は女子で描かれた。「新ユーゴスラビア」に代わって急きょ出場となったノルウェーが準決勝でEUNを退け、決勝はドイツを破った韓国との顔合わせ。オリンピック、世界選手権を通じ初の“西側”同士によるカードは韓国がソウルに続いて頂点に立った。

男子はEUNがスウェーデンを破り底力を示し、フランスが3位となり新時代の使者と注目された。

大会前に開かれた国際ハンドボール連盟(IHF)の第24回総会は激論の末、世界選手権の開催サイクルを1993年から「2年」とすると決めた。ヨーロッパが主導で改選されたIHF新執行部の提案に対して、ヨーロッパの国の賛否が分かれる異例の展開だった。

9月に中国の呼びかけで男女の「極東トーナメント」が中国・上海で開かれ、韓国以外は日本、北朝鮮、台湾、中国がいずれも代表チームを送った。日本は男子が優勝、女子は4位。

新発足が準備されている「東アジア競技大会」加入へのアピールが狙いとされたが、思うようには進まず「極東トーナメント」も第2回は開かれなかった。

この年のアジア・ハンドボール連盟(AHF)総会(7月、バルセロナ)で渡辺佳英(日本協会副会長、当時)が理事に選出され、このあと8選を重ね現在(2022年)は第1副会長のポストについている。旧ソ連のカザフスタン、ウズベキスタンなど5共和国のアジア大陸編入が報告され、ハンドボールの実力はカザフスタンが国際レベルにあるとされた。

7月、ヨーロッパマスコミのハンドボール短信は西イタリアの浜辺で若者が気ままに楽しんでいる「ビーチ・ハンドボール」をイタリア・ハンドボール協会が組織化に乗り出したと伝えた。

第72回は10月3日公開です。


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