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第27話・1948年 『東西代表による学生王座決定戦』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

7月1日付で「日本送球協会」の公称が「日本ハンドボール協会」に改められた。「ハンドボール」は終戦直後から愛好者の間ですでに“常用”されていた。一方で「送球」の名を冠せたままのチームや大会もこのあと少なくなかった。
 
春に大きな変革がある。4月1日、学制改革で「小学校6年ー中学校(新制)3年ー高校(同)3年」(6・3・3制)が施行されたのだ。
 
スポーツ界の現場は旧制中学、高等女子校から新制高校へ力点を移す。6月28日、全国高校体育連盟が結成され、国体中学の部は高校の部と変わった。国体はこの年(第3回、福岡)から都道府県対抗形式となる。

ハンドボール界で旧学制最後となる「中等東西対抗」が新春1月25日、東京・明治神宮外苑競技場(当時の名称はナイルキニック・スタジアム。現・国立競技場)という晴れがましい舞台で催された。

顔合わせは男子・東京重機工業−倉敷工業(岡山)、女子・東京第一師範予科−倉敷高女(岡山)。審判はこの日のメインカード一般男子東西対抗(第7回)の出場選手が務めた。企画ではない。当時は選手、コーチ、審判・役員と1人3〜4役が“常識”だった。次回以降、新制高校男女の大会に継ぐことが明らかにされた。
 
5月、関西学生リーグ(男子)が関西大学、関西学院大学、神戸経済大学(現・神戸大学)、京都大学、大阪医科大学、大阪歯科大学、大阪理工科大学(現・近畿大学)、立命館大学の8大学で発足した。

戦後3ヵ月で「西日本大学大会」の名のもとに活動が始まり、1947年の冬季大会まで日本ハンドボール協会関西支部の「学生部門」的な位置づけで歩んだが、各校の新進OBが中心となり、待望の“独立”を果たした。球史的にはこの春のリーグが第1回とされる。秋には5大学が加わり、1、2部制を布く。戦前のこの地域の中学(旧制)に対する結束・連携・普及がいかに根強いものであったかを示す。
 
関東学生界が大学個々の志向と力で進んだのに対し、関西は地域(中学)の基盤から育った愛好者が原動力となった。興味深い“対照”だ。
 
次の手を打つ。関東側に「秋季リーグ戦優勝校による対抗戦」をと提案、12月19日、西宮球場(兵庫)で「東西学生王座決定戦」のダイナミックな大会名によって実現される。発想の元となったのは国体の学生男子東西対抗で大阪歯科大-早稲田大が2年(1946、1947年)続けて演じた力闘にある。次回以降は東西交互での開催が申し合わされる。
 
10月、「大日本体育会」は「日本体育協会」改称、改組。再び完全な民間団体となった。
 
国際ハンドボール連盟(IHF)は6月、フランスで10年ぶりに第2回世界男子11人制選手権を開き、ヨーロッパの12ヵ国が参加、スウェーデンが優勝した。ドイツは招かれていない。
 
12年(3大会)ぶりの夏季オリンピックがロンドンで開かれたのは7月、ハンドボールは行なわれなかった。
 
〈編集部注〉このあと日本ハンドボール協会の表記を日本協会とするほか、都道府県協会、全国連盟、大会名などもとくに必要な場合を除き「ハンドボール」の字句を省略してお伝えします。

第28回は8月20日公開です。


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