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第15話・1936年 『送球』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

「送球」。

ハンドボールの邦名が決まった。時期については諸説あるが考案にあたった1人、酒井將(体育研究所技師)が日本ハンドボール関係者にあてた1991年5月の書簡では「昭和11年(1936年)10月である」と力を込めて記されている。

伝来以来、ハンドボールに邦名はつかなかった。

1936年6月30日発令の文部省による「改正学校体操教授要目」で初めて「手球(しゅきゅう)」の名が公式に登用されている。「送球」の発表は手間取ったと言われるが「手球」との“調整”が必要になっていたからだろうか。

「手球」については「日本ハンドボール史(日本ハンドボール協会、1987年2月刊)の「福島県の項」で「1930年に体育教官として福島県に赴任された人が手球と称して授業に取り入れた…」との一節がある。1936年の「教授要目」よりもかなり前、すでに「手球」と名づけられていたとすれば、なぜ広がらなかったのかが新たな興味になる。謎でもある。

酒井の書簡には「ウォール・ハンドボール(第6話・1927年の項参照)と区別したい。手球よりも送球が適正な表現と確信して…」とも記され「手球」の“存在”を知っていたことがうかがえる。さらに「大谷武一は手球から送球に変えることには極めて消極的であった(中略)。『教授要目』の改訂委員会の有力メンバーであったためと思われる」ともある。

福島県協会のリポートを裏づけるような説もある。日本陸上競技連盟内の「ハンドボール専門委員会」(第14話・1935年の項参照)で邦名を定めようと提唱したのは大谷で、1926年の「学校体操教授要目」ではハンドボールとなっていた名称が、ある時から手球と表記されるようになり、大谷は別の邦名をと考えていたというのだ。それでいて酒井が記すように「送球」には乗り気ではなかったのはなぜか。

邦名は外国語を遠ざけようとする動きとはまったく無関係に作業され、1940年代あらゆる外国語・外来語が排除された時にはすでに「送球」である。

「手球」の時代はいずれにせよ短かった。1936年の「教授要目」では気づかぬうちに「送球」となる。

「送球」の反響はどうだったか。後年、戦前の多くの愛好者に思い出を聞くと「ハンドボール以外を名乗ったり会話したことはない。仲間内ではつねに『ハンドボール』だった。チーム名をハンドボール部で届けると受け取る側が『送球』に直してしまう」と笑っていた。

新聞、雑誌などは字数の少ないのを歓迎し「ハンドボール」をすぐ「送球」に変えて扱った。

(編集部注・当コラムはこのあとケースに応じて「ハンドボール」と「送球」を使い分けます)

第16回は8月8日公開です。

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