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第40話・1961年 『オリンピック挫折と世界への船出』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

国際オリンピック委員会(IOC)は、前年末、東京オリンピック組織委員会がハンドボールなど4競技を外し18競技で行なうと発表したことに対し、実施競技はIOCのみが決定できると言明。この問題の結論は6月のIOC総会(ギリシャ・アテネ)にかけられることがわかった。ハンドボール実施はわずかな望みを残した。
 
「支援」を世界にアピールするチャンスがあった。日本は3月、西ドイツ(当時)での第4回世界男子室内選手権への初参加をすでに決めており、大会前にフランス、チェコスロバキアなどでの転戦も予定されていたのだ。
 
日本体育協会(現・日本スポーツ協会)は2月1日の理事会で、通常の世界選手権参加費補助額は3分の1だが、ハンドボールは東京オリンピックから外れ国際進出の機会が少なくなるとして2分の1の補助を決めた。日本協会はもちろん押し戻し、通常の規定額で、とはねのける。

初めて立つ世界の舞台は12ヵ国が集まり、日本は厳しい試合を強いられる。チェコスロバキアとのデビュー戦は10-38、第2戦はルーマニア、前年来日した陣容と同じながら気迫にあふれた攻守の前に11-29。日本を破った両国が勝ち進んで決勝で顔を合わせ、ルーマニアが初優勝。日本との差を痛感させられる。
 
“運命の日”は6月21日。アテネでのIOC総会は1時間近い議論の末、実施競技を役員を除く44人の委員の投票で即決となり、ハンドボールとアーチェリーへの支持が過半数に達せずふるい落とされた。

実施競技数は組織委員会の望む18ではなく20。日本協会は開催地として22(柔道を加え、ウォーターポロは水泳に含む)を望めば可能性は充分にあったと抗議、国際ハンドボール連盟(IHF)は立候補時に公約したオリンピック憲章で定められた全競技実施が守られなかったと遺憾の声明を出すが、そこまでであった。
 
東京オリンピック・ハンドボール2度目の悲運。背景は世界における普及の遅れだ。1960年現在IHF加盟国は27。このうちヨーロッパが21ヵ国で、残り6ヵ国はアジア2(日本、韓国)、アメリカ大陸2、アフリカ2とあまりにもバランスが欠けている(ほかに準加盟国3)。
 
日本(東京都)は1960年招致不成功の“教訓”として1964年に向けて“世界のスポーツ地図”を精細に分析、IOC委員からまんべんなく集票するためヨーロッパで盛んなハンドボールを含む「全競技実施」を公約した。
 
アテネの総会でハンドボール支持は16票(16委員)にとどまったとされる。認知度がヨーロッパだけ高いスポーツでは削減のムードを払う力には欠ける、順当な結果と報じたマスコミが多い。開催地選択とは性格の異なる投票でもあった。
 
ヨーロッパ出身のIOC委員がすべて支持に回ったわけではなかった、と後日わかる。IOCの中に「東西対立」の風が吹き込み始め、東ヨーロッパの強いハンドボールの台頭にブレーキをかけたい思惑が働いたのではないか、と日本のあるスポーツジャーナリストは“推理”する。すべては水面下に沈んだまま真相は永久に浮かび上がるまい。
 
秋、日本体育大学男子が韓国遠征、「日韓交流」の開幕を告げた。全日本実業団選手権が初めて広島で開かれた年でもあった。

第41回は9月2日公開です。


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スポーツイベント・ハンドボール編集部
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