見出し画像

第59話・1980年 『モスクワ・オリンピック不参加の痛恨』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

5月24日、日本オリンピック委員会(JOC)はモスクワ・オリンピックの日本選手団不参加を決めた。男子の3大会連続出場に燃えていた日本ハンドボール界にとって沈痛な1日となった。

年明けにアメリカのジミー・カーター大統領がソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議、「モスクワ・オリンピックへの不参加も辞さない」とし、1月20日正式声明となり国際スポーツ界は激震に見舞われる。

JOCは時間をかけながら情報を集め分析、慎重な姿勢を示したが、事態は次第に「アメリカに同調」へ傾く。

4月、アメリカ・オリンピック委員会(USOC)が不参加を正式発表、西ドイツ(当時)、韓国なども続く。出場権を手中にしていた全日本男子は4月東ドイツ(当時)へ遠征、そのあと中国で全日本女子とともに親善試合を行なっていた。

JOCは日本政府の見解もあってナショナルエントリーの締め切り日となる5月24日に東京・岸記念体育会館で臨時総会を開き、42人の委員による投票の結果、不参加に賛成29、反対13で悲しい結論が導き出された。

日本協会(荒川清美JOC委員)は、4月23日西ドイツ・オリンピック委員会が「不参加」を決定したのに大きく影響され、賛成票を投じたと明かした。

モスクワ・オリンピック(7月)は男子12ヵ国(アジア代表は日本に代わってクウェート)、女子6ヵ国(3大陸代表は韓国に代わってコンゴ人民共和国)で争われ、男子は東ドイツ、女子はソ連が金メダル、ロスビッタ・クラウゼ(第58話参照)の東ドイツは銅メダルとなった。

トップレベルの東ヨーロッパ勢が欠けずに内容的には高水準となったが、ラフプレーがめだち非公式ながら国際オリンピック委員会(IOC)筋から注意があったとされる。

日本はエース蒲生晴明(大同特殊鋼)がオールラウンダーとして国際的にも高い評価を得て、チーム全体のパワーもメダル圏内の期待がかけられていただけに“痛恨の不参加”となった。

12月、フランスで開かれた第8回世界学生選手権で西山清(筑波大学)が5試合で55ゴールの強打を見せ得点王。

来年に迫った1988年夏季オリンピック開催地の決定は名古屋市のほかソウル(韓国)の動きが熱を帯び、このほかメルボルン(オーストラリア)、カリアリ(イタリア)が準備を進めていると伝えられた。一時、名のあがっていたロンドン(イギリス)は見送った。

第60回は9月21日公開です。


よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートはよりよい記事を作っていくために使わせていただきます。