第25話・1946年 『初の国体飾る豊中(大阪)勢』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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日本スポーツ史を飾る第1回国民体育大会(国体)が開幕。平和の日々を迎えたとはいえ国民の生活混乱の渦の中に勇気・希望を、と発想された大会だ。「国体」は国内組織の充実にこのあと大きな役割を果たす。
ハンドボール(大会での競技名は送球。サブタイトルは全日本送球競技大会)が参加した秋季大会は11月1日から3日まで23競技(参加5622人)が行なわれ、会場は近畿2府3県にまたがった。
ハンドボールは兵庫・西宮球技場で一般女子と男子中学(旧制)が各4チームのトーナメント、一般男子の東西対抗(全関東−全関西)、学生男子の東西対抗(東・早稲田大学−西・大阪歯科医学専門学校)の4種別だった。
両トーナメントの勝者は大阪・豊中高女クラブと大阪・豊中中学。豊中市の愛好者層の広さ、競技力の高さが賞讃された。学生男子は東西で予選が行なわれ、期待通り好内容となるが、大方の予想に反し大阪歯科医学専門学校(のち大阪歯科大学)が5−1で快勝。両校に豊中中学出身者が3人ずつ名を連ね話題が広がる。
大会委員長を務めた日本ハンドボール協会理事長、佐藤八郎は詩人のサトウ・ハチロー。新会長、式場隆三郎の推薦で9月に就任したばかりだった。前年、国民的歌謡となった「リンゴの唄」の作詞者、異彩を放つ人事だが、1930年後半からスポーツ誌でスポーツ小説や評論を手がけ、鋭いスポーツ眼を持っていた。本業があまりにも多忙、すぐに退任してしまった。
復興第1年とも言えるこの年は、1月20日西宮球技場で男子東西対抗(戦前から通算第5回)が行なわれ、6月には東京大学学生リーグが関東学生リーグに改組・改称して新たな歩みを刻む。12月に第1回西日本中学(旧制。女子は高等女子学校)選手権が行なわれたのは間近となる“高校界確立”へつながる貴重な企画で、東日本大会も次年から始まる。
6月12日、世界の新組織、国際ハンドボール連盟(IHF)が、北ヨーロッパ各国の主導によって、コペンハーゲン(デンマーク)で旗上げした。日本とドイツは、すべての国際スポーツ界同様に加盟を認められなかった。
第26回は8月18日公開です。