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第52話・1973年 『世界女子代表を見舞った悲報』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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12月ユーゴスラビア(当時)で開かれた第5回世界女子選手権は、女子のオリンピック採用もあってアジアでは韓国が初エントリー。国際ハンドボール連盟(IHF)はアジア予選を指示し、日本協会は4月東京、大阪で各1試合を準備したが、韓国が不参加となり日本の4回目の本大会出場が決まった。

このあと31人の候補選手を決め、監督(井薫)、コーチ(鈴木義男)に初めて実業団チームの指導者を選任、モントリオール・オリンピック(カナダ、1976年)をめざし、女子の頂点強化に新時代の幕開けを感じさせた。

大会トライアル「オランダ女子3国対抗」(11月)でオランダ、ノルウェーを破り優勝、男女を通じ代表チームによる公式国際大会で初めてのタイトル獲得となった。

この好調を”悲報”が襲う。11月29日、監督と代表選手12人のうち6人が所属する大洋デパート(熊本市)で火災が起き、買い物客や従業員103人が亡くなり、110人が負傷する大事件が起きたのだ(=数字は当時のマスコミ報道による)。

チームは大会地入り前のフランスで事態を知り動揺、東京の日本協会と連日3時間おきの連絡を取り合う。負傷者などに選手の関係者はいないとわかり、現地で団長(田村正衛・日本協会会長)が大会への出場を決断した。

日本は9-12位決定リーグでオランダ、西ドイツを破り10位、12月18日帰国した。大洋デパートは廃部となり同県内の立石電機(現・オムロン)へチーム全員の移籍が決定するのは翌年である。大洋デパートは1961年創部、全日本総合選手権優勝5回など22個の全日本タイトルを手中にした球史に残るビッグチームだった。

9月、ミュンヘン・オリンピック金メダルチーム、ユーゴスラビアが来日、全日本との2試合を含む6戦を各地で行ない、ベストメンバーを揃えた最強国に全日本は12-23、14-23。親日家のユーゴスラビア、イワン・スノイ監督が「日本のファンにわれわれの速攻とスカイプレーを見せたかった」と語った通り、長身選手の強打だけではなく速さ、巧さでも圧倒的な力を見せつけた。全日本は19歳、192cmの新星・蒲生晴明(中央大学1年)をデビューさせる。マスコミ、ファンの注目度はかつてなく高かった。

第53回は9月14日公開です。


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