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第29話・1950年 『2つの全日本タイトル大会』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

復活と新生。2つの全国大会が開かれた。全日本選手権(1月)と全日本高校選手権(8月)である。
 
日本協会は戦前4回(女子は2回)開いた全日本選手権の復活を急いだが、交通事情、宿泊事情が絡んで協議のたびに延びる。1949年度中にはとの目標を立て、ようやく愛知県一宮市での開催へこぎつけた。愛知県協会と地元は秋の愛知国体に備えて1年前、東西対抗(4種別)を行なっていたが、さらに運営の万全を図りたいと引き受けた。大会回数は戦前を引き継がず第1回とされた。
 
男子16、女子8チームの参加を期待したが13、3と物足りず、会期(冬季)に問題があるとして次回から秋、この年の11月に東京(駒沢)で、と早々に断を下した。
 
8月10日、大阪・藤井寺球技場で初の全日本高校選手権が開幕。新発足の全国高校体育連盟(全国高体連)によって次々と多くのスポーツの高校界が確立していく中、ハンドボールが“連盟発起11専門部”の1つに加わったのは特筆される。戦前の旧制中学による全日本選手権は2回だけ、実績は充分と言えなかったが、終戦直後から「新制高校」を見通して旧制−新制中学への組織化に力を注ぎ評価されたと言っていい。
 
男子31都道府県52校、女子20都道府県30校1122人の選手が一堂に会する壮観はハンドボール史上初めてであり、戦前からの関係者、指導者の感慨は深いものがあった。大阪協会・大阪高校界が示した運営力も素晴らしかった。
 
注目されたのは女子で「高等女学校」(高女)の伝統を継いだチームが20校顔を見せ、準決勝に進出した4強はすべて“高女勢”。このうち3校が岡山県勢で、3位までを占めた。高校界は球界の大きな柱となる。
 
大会中、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を通じて国際ハンドボール連盟(IHF)の「1947年版ルール」が届けられ「オフサイドラインの撤廃」などの大改正を知った。IHFの動向が伝えられたのは初めて。
 
日本協会は急きょ東京と大阪で講習会を行ない、10月の愛知国体から施行と決定。「世界に3年近く遅れた」の思いと、IHFへのアピールもあり、強行が理解される。国際シーンから遠ざけられた悲哀も痛感させられた。
 
年内2回目となる全日本選手権は女子が2チームのみの参加で、深刻さをいっそう強めた。このままでは女子は行き詰まる、の声は全日本高校選手権の裏でも開かれ、愛知国体の予選段階では一般女子の“弱体”が各地から報告された。
 
日本協会は「日本ルール」としてコートサイズの縮小などを採り入れたが、不充分とし、いっそうの改善へ取り組む。

第30回は8月22日公開です。


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