第39話・1960年 『小さくなる東京オリンピックの光』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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ローマ・オリンピックの閉会式(9月11日)で場内スクリーンに浮かび上がった「東京でまた会いましょう」の電光文字。この大会を境に「前と後」は日本ハンドボール界にとって「明と暗」ともなる。
6月、来日したルーマニア男子代表(前年の世界男子11人制選手権準優勝。優勝はドイツ東西連合)との親善試合は東日本を中心に全10戦が組まれ、県選抜や国内有力単独チームが臆することなく挑む。とくに最終戦(7月3日、東京・小石川)の全芝浦工業大学(東京)は残り20秒で決勝点を許し16-17で敗れるが、その善戦は大きな評価と賞賛を日本ハンドボール界にもたらした。
同大学は1950年秋の関東新制大学リーグを経て51年から関東学生リーグに編入された新進校だった。54年春季に1部リーグへ昇格したのを機に、大学側が積極的なチーム作りを図り始めた。
同年、全日本学生王座決定戦で初勝利したのをきっかけに国内最上位に躍り上がり、前年までに全日本学生王座3回、全日本学生選手権2回、全日本総合選手権1回、関東学生リーグ6回、全芝浦工業大学として全日本総合室内選手権2回の優勝、全日本体育大学(東京)、関西学院大学(兵庫)などと並ぶ強豪の定評を得た。ルーマニア戦の健闘はその真価を発揮したもので「東京」への期待をふくらませた。
このシリーズは東京オリンピック選手強化対策本部の後援を受け、同本部のスタッフに日本協会代表者も正式に加わっていた。
ローマ・オリンピック閉会後、水面下では警戒すべき動きが波立ち始めていた。オリンピックの肥大化を懸念する規模適正論である。国際オリンピック委員会(IOC)は8月の総会(ローマ)で柔道を新たなオリンピック競技に決定、「東京」での採用も受け入れた。
これで実施競技数は22となる(当時は競泳とウォーターポロ=水球は個別にカウント)。IOC内のムードから推して、このまま進むのは難しいとの観測が内外マスコミによって伝えられる。15~18競技に抑えられればハンドボールは苦境に立つ。
9月、リエージュ(ベルギー)で開かれた国際ハンドボール連盟(IHF)の第9回総会を日本協会は欠席した。「東京」でのハンドボールが揺れているにもかかわらず情報収集の機会をなぜつかもうとしなかったのか。
11月、厳しい調査結果をIOCが公表する。IOCは67人の全委員に「東京オリンピック競技数」についてアンケート、「全競技(22)」と答えたのはわずか2人、衝撃を受けたのは競技別支持数でハンドボールは最下位(22位)となった現実だ。
日本協会は緊急在京理事会を開き「競技数の削減ではなく参加人数あるいはチーム数の縮小」を東京オリンピック組織委員会などに提言する。
組織委員会は大会予算面で膨張を避ける苦心を背負っていた。IOCの姿勢、柔道を含む22競技実施に首をかしげ始めた国内世論は同委にとって離したくない“味方”だった。
ハンドボールを包む形勢は日ごとに深刻となり、12月組織委員会内に設けられた「開催競技整理委員会」は12月22日の組織委員会総会(東京)で「ハンドボールなど4競技を除く18競技とする」と報告、承認を得る。
短期間で強引な“結論”を導き出した決定に日本ハンドボール界は憤まんをぶつけるが、大勢を覆すのは至難と思えた。
希望の糸は細いが、まだ切れてはいなかった。わずかなチャンスを活かせるか。すべては年が明けてからとなる。
第40回は9月1日公開です。
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