第64話・1985年 『現われ始めた日・韓 勢いの差』
「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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日本リーグが10年の歩みを刻んだ。
6月からの前期、11月からの後期、男子1部と女子1部は6、2部は男子8、女子6。トップリーグとして充実を示した最大の課題は「一般の関心」に尽きた。10年間の男女1部総試合数は649(男311、女338)、同総観客数はのべ40万3135人、1試合平均621人。
第3回(1978年)に総数で6万2700人をマークしたが、そのあと大会方式の変更もあって数字は落ち「最少でも1シーズン(年)5万人、1試合平均800人(=1会場2試合で1500人)の目標には及ばなかった。
マスコミは「オリンピック競技に定着した効果で魅力は伝わっているが、男女代表チームの世界での活躍、それに伴うスター誕生、“外側”のファンを誘う内側のアイディアに物足りなさがある」とする論評が多い。
ソウルを舞台に10月開かれた2つのビッグイベントで日・韓の勢いの差が現われた。
第11回世界男子選手権(1986年・スイス)のアジア予選はアジア・ハンドボール連盟(AHF)が前回(1981年)同様、極東・中東の2ゾーンに分け1次予選、その勝者が中東側のホームで決定戦を行なう方式を継いだ。
日本は強化部長が監督を務める“応急体制”、韓国に26-30、中国に26-26で8大会連続の本大会行きを逃した。一方、韓国は中国を破り1位、中東代表クウェートとの2連戦をストレートで降し本大会出場を決めた。日本は引き離された印象は薄かったものの独走時代の終わった厳しさがいっそう明らかになる。
1週後、アジアで初の世界選手権として第5回世界女子ジュニア選手権がソウルで幕を開ける。韓国オリンピック委員会とハンドボール協会は「東ヨーロッパ勢5ヵ国が顔を揃える」とアピール。1988年のソウル・オリンピックが3大会ぶりに全世界からの参加に向かう姿勢を強調した。
4ヵ国ずつ4組の1次リーグで日本はポーランド、ユーゴスラビアに敗れたあとコートジボワールの棄権で2次リーグ(ベスト12)に勝ち進んだが、韓国に17-28、中国に23-26とアジアのライバルに及ばず最終ランクは12位。地元の声援を背にした韓国はこのグループで首位となり4連覇をめざすソ連と決勝を争い、前半16-9の大差を逆転され24-27の惜敗、2位。この健闘が韓国女子の明日へつながる。
7月、ペパート(フランス領ポリネシア・タヒチ)で開かれた「オセアニア男子選手権(環太平洋国際ハンドボール選手権)」への招待状が日本協会へ届き、全日本の派遣が検討されたが、アメリカ遠征と重なったため関東学生リーグ主体の全日本学生選抜が参加した。オーストラリア、ニューカレドニアなどを中心にこの地域でのハンドボールが発展している状況を知ることになった。
第65回は9月26日公開です。
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