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第17話・1938年 『日本ハンドボール協会誕生、激動の1年』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

振り返ると、これほど激動に見舞われた年はない。実施問題が前年末に好転し、ハンドボール周辺にオリンピックの光が差しこむ。まずは3月の国際オリンピック委員会(IOC)総会(エジプト・カイロ)の準備、1月13日の組織委員会選手強化小委員会でハンドボールに1250円の強化費交付が決まる。1月16日には岡山県送球協会が発足し、在京の“ハンドボール関係者”を元気づける。
 
2月2日、東京で「日本送球協会」誕生。日本陸上競技連盟(日本陸連)から国際アマチュア・ハンドボール連盟(IAHF)の日本代表権を譲渡する証明書が渡され、同時に「今後、送球に関する一切の事は日本送球協会に一任す」との声明書が添えられた。初代会長は平沼亮三が日本陸連会長と兼ね、副会長に大谷武一、理事長に陸上競技人で体操界にもつながりのあった中園進が就く。
 
3日後、ドイツで第1回世界男子室内選手権が4ヵ国の参加で開かれたが、日本で関心を抱く人は少なかった(優勝ドイツ)。
 
東京オリンピックに向けての強化事業は、2月末に候補選手29人を指名し3月16日から3日間、慶應義塾大学日吉グラウンド(横浜市)にこのうち27人とコーチ3人が集合して、初合宿を行なった。
 
あわただしさを物語るように候補選手の選考経過を伝える資料は見当たらない。選手名さえもいまだに完全に揃わず大学研究者などが“調査”を続けている。年度内に強化費を役立てなければならなかった、と古い裏話が残る。
 
この合宿と同じ時、カイロのIOC総会(3月13~18日)で東京組織委員会によるハンドボールを含む全競技日程案(1940年9月21日~10月6日)とおもな会場案が承認を受けた。
 
ハンドボール(男子11人制)は9月27日から10月2日まで、予選ラウンドは品川自転車競技場と第一生命グラウンド(神奈川)、決勝(最終日)はオリンピック・スタジアム(駒沢に新設)となっていた。席上、参加国数には念が押されている。
 
5月に東京大学学生リーグ(関東学生リーグの前身)が文理科大学(現・筑波大学)、慶應義塾大学、明治大学、日体(日本体育会体操学校、現・日本体育大学)、早稲田大学の参加で幕を開け、終了後に東京オリンピック第2次候補選手を選考、夏までに長野県内で合宿の予定とされた。
 
この通知は大阪、兵庫(神戸)、岡山などにも届いていたといわれる。日本ハンドボール協会は5月31日に大日本体育協会(のち日本体育協会、現・日本スポーツ協会)に加盟したが、そのルートで地方の体育協会にも連絡したものだろう。
 
すべて順風と思えたが、背後では暗い動きが激しくなりつつあった。日本を取りまく国際情勢の悪化だ。
 
国内でもすでに前年、東京オリンピック開催に疑義の声が起きており、後年の諸文献では「不参加」をにおわす外国の動きも出ていた。日本スポーツ界には逆風が吹きこみ始め、その中でハンドボール界は“1人起ち”したのだ。当時の関係者の胸中はいかがなものだったのだろう。
 
日本政府は7月15日、東京オリンピック開催権の返上を決めた。日本ハンドボール協会が発足して163日しか経っていなかった――。

第18回は8月10日公開です。

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