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「あのころを語ろう」第1回(無料配信)

今、ハンドボール界のトップレベルで活躍する選手たちも、ハンドボールを始めたばかりの時は失敗やうまくいかないこともあったはずだ。彼らは10代のころ、どんな練習をし、なにを考え、プレーしていたのだろうか。トップ選手に「あのころ」を振り返ってもらう連載の第1回目は、最前線を走り続ける宮﨑大輔選手(大崎電気)に登場してもらった。

「とにかくめだちたかった(笑)」

ハンドボールを始めたのは小学生からです。姉がいたチーム(明野北ハンドボール少年団)に入りました。ここは姉の代で全国小学生大会に優勝して、下の世代は男子が優勝するような小学生の強豪チームでした。

まだ小学生でしたが、火曜日以外は練習があって、あとは朝みんなで集まってシュート練習など自主練もしていましたね。

当時の練習は、戦術的な練習よりも走ることと、技術的には1対1、シュート練習が多かった。セットOFは「自分たちで考えろ」って。そうすればみんなで話し合いますよね。どうしようかって考えて練習や試合で使えば覚えられますから。

難しいことはそんなに教わってなくて。僕たちが全国大会に出た時、最後は沖縄の当山小に負けたんです。監督は東長濱(秀吉、現琉球コラソン監督)さんです。

その当山小がブロックプレーを使ってきたんです。僕は真ん中を守っていたんですけど、いきなりポストにブロックをかけられて、「これはなんだ」と。当時の僕らにとって、ポストというのはDFの間にいて、動いてボールをもらってシュートを打つっていう認識しかなかったので、ワケがわからなかった。

そんな感じで戦術的に難しいことは知らなくても、上位に進めるぐらい走力と練習量はありましたね。今振り返ると、小学生時代はフェイントやシュートなどの個人能力の部分、それと走るという基本的な部分を身につけるように教えてもらいました。

中学生時代は小学生より練習は楽でした(笑)。僕の地元は山が多くてアップダウンの激しいところです。そこを毎日練習前に走って、あとはフットワークとシュート練習がメインです。

先生はハンドボールの経験者ではなかったんですが、僕のように小学生から始めていた人が何人かいて、あと、細かい技術は外部から教えに来てくれるコーチがいて。そこでステップワークや、スカイプレー、相手との距離感の取り方なんかも教えてもらいました。僕が3年生になった時には明野中で全国優勝した経験がある先生が顧問になりました。やっぱり教えるのはうまかったですね。

高校は名門の大分電波高(当時、現大分国際情報高)に進みましたが、この時代の練習が一番きつかった。日体大の練習もきついと言われていますが、高校時代に比べればぜんぜんですね。

とにかく走る量が多かったし、時代だな、とは思いますが、休日がほとんどなかった。休みがある時に「休日があるんですか」って聞いちゃうぐらいでした(笑)。

内容としては、ひたすら走る、フットワーク、3人、4人の速攻、6対6の速攻という感じでした。とにかく走ってばかりでしたが、速攻の攻防練習では相手に2本連続で決められると罰ゲームがあったんです。

そうすると、1本決められた時点で緊張感が走りますよね。罰ゲームはきつかったですが、先生はメリハリというか「ここはやらせちゃダメだ」という意識づけをするためにしていたんだと思います。

大切なのは「メリハリ」

小学校でハンドボールを始めて、その当時からずっと自分の中で印象に残っているのは、父親が言っていた「やるときはガムシャラにやらなきゃいけない」という言葉です。

「遊んでてもいいんだよ。でも、ここぞ、という時には死に物狂いでやるんだ。そこでもやれないなら、なにをしてもうまくいかない」って。

一生懸命やるのは大切ですが、「いつも一生懸命」では疲れるでしょう。休む時は休む。でもそれはやるべき時にやるためなんです。「ガムシャラ」にやるために普段から「メリハリ」をつける。

日本はとくにそうですが、練習時間が長い。本当は2時間ぐらいでできるのが一番いいのではと今は思います。部員がとても多くて練習が回らないということもあるでしょうけど、長い時間やっていても、結局その間にダラダラとするタイミングが出てきてしまう。それなら、短い時間でみんなが集中してできる練習を考えてやる方がいいと思いますね。

そうやって短い練習時間の中で、どれだけ試合のことを想定してできるか。スペインでプレーしていた時(09~10年)は、自主練禁止でした。「そのぶんを明日の練習で出してくれ」って。しかも練習時間は60~90分です。それでもきつかったですから。トップチームだからそうなんじゃなくて、下の年代でも3時間練習とかはまずない。もちろん日本とスペインでは条件も違いますが、練習からメリハリを意識するのが大切だと思います。

「最後の1点を取るために練習しているんです」

僕、あまりプレッシャーを感じたことないんですよ。最後の1点を外したとしても、そこで打てたことに価値があると思うんです。その最後の1点を取るために練習をしているのであって、ビビる気持ちはわかるんですけど、そこでビビって打ちもしないなら練習の意味がない。

それに、そんな気持ちでやっていたら出られない人にも応援してくれている人にも申し訳ない。そこで思い切ってやるからこそ、ダメだった時にそれを改めて、もっとなにかしていこうという気持ちが生まれるし、そういう気持ちがあれば、次に同じような状況がきた時に、その人はもっと強くなれるかもしれないですよね。

試合でただシュートが決まって楽しいというレベルから、練習でしっかりやったこと、例えばコンビネーションがしっかりできて得点できたことが楽しいというレベルになれば、それがうまくできなかった時に「そうか、止められるということは、まだ足りないんだ。まだ上が、先があるんだ」と思えるようにもなります。

そうなればハンドボールはもっと楽しいですよ。
僕も32才になりましたけど、まだまだ伸びると自分で思っていますし、チャンスがあればまた外国でプレーしてみたいですからね。

仲間を思ってプレーする

小・中・高を振り返って思うことは、自分がどれだけ周りを活かせたか、周りに活かしてもらって自分が打てたかなってことなんです。それがチームで戦うということですよね。

僕、とにかくめだつのが好きだったし、負けず嫌いも強かったんです。今もですけど(笑)。その分、自分に厳しかったし周りにも厳しかった。「できるところまでやれよ」って。そこで、言い方、やり方の部分でもっと人を思う気持ちを持ってできていれば、チームメートももっと伸びて、もっといい成績を出せたんじゃないかなって。

あの年代は自意識も入るし難しいんですけど、自分を客観視するというか、第三者の目で見ることができればなあと。

みなさんも、時には自分自身を冷静に見て、ぜひ周りとの関係を考えながらプレーしてもらいたいですね。

宮﨑大輔/みやざきだいすけ
1981年6月6日、大分県生まれ/右利き/BP
明野北ハンドボール少年団→明野中→大分国際情報高→日体大(途中2年間スペインに留学し、グラノジェルス、ポソブランコでプレー)→大崎電気→アルコベンダス(スペイン)→大崎電気
大学時代から日本代表入りし、アテネ、北京、ロンドンと3回のオリンピック予選を戦った。大崎電気でもエースとして長年チームをけん引。05年日本リーグ・プレーオフMVP。

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