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第32話・1953年 『全日本選手権、高校チームに門扉開く』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

日本協会は女子振興策として全日本選手権を全日本総合選手権に改称、高校チームの出場へ門扉を開く策を打った。
 
前年の申し込みゼロによる不成立は、大会の面目よりも女子界の前途を危うくする事態であった。
 
反論、異論も少なくなかった。「高校チームが日本一でいいのか」「全日本高校選手権の地方予選で敗退したチームが優勝してもいいのか」といった“権威論”が主だが「参加チームがなく全日本選手権を開けなくなるよりはいい」とする意見が押し返す。
 
その効果か8月の第5回大会(山梨・富士吉田)は過去最多となる7チームがエントリー。内訳はクラブ3、学生2、高校、県選抜各1で、現役・OG混成のクラブ、全静岡城北高校が優勝した。「次回以降の予断は許さない」が総評となる。
 
興奮を誘う動きが明らかになる。
 
東京都が1960年の夏季オリンピック招致に乗り出し、3月7日、衆議院が「招致」の決議を可決したのである。
 
具体案作成の軸は実施競技だ。学生界を中心に盛り上がるが、最終的にハンドボールは計画に加えられない。招致そのものも2年後の国際オリンピック委員会(IOC)総会の投票で敗れローマ(イタリア)に決まる。ハンドボールはイタリアで普及しておらず、見送られる。
 
夢は短く散ったが、終わったわけではなかった(=この話題は第34話以降へ続く)。

第33回は8月25日公開です。


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