第2話・1923年 『大谷武一という人』
スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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日本にハンドボールを伝えた大谷武一(おおたに・ぶいち)は1922、23年と各地の体育指導者講習会によく出席し普及に努めた。大谷を知る人は「熱中型。なにごとも面倒見がよかった」と話していたそうだが、ハンドボールも紹介した責任をいつも感じ行動を続けた。
生まれは1887年5月14日兵庫県加西郡賀茂村(現・加西市)。姫路師範学校(兵庫)・東京高等師範学校を卒業、柔道4段。1917年から2年間文部省留学生としてシカゴ大学でアメリカの体育・スポーツを学び、その帰途ヨーロッパへ回って、1920年冬、ベルリン(ドイツ)でハンドボールに親しむ人の姿を見て知識を得た。
日本には1922年7月の講習会で伝えたが、その前年ソフトボール(当時の競技名はプレーグランドボール)を国内に初めて紹介もしている。
「ボールゲーム」の研究者、指導者に思えるが体育-体操が専門、1928年「ラジオ体操」の考案に検討委員で加わり、同年11月東京放送局(現・NHK)で放送が開始され話題を集める。大谷を「ラジオ体操の生みの親」と伝える資料も多い。
競技としての体操にも関わりは深く、1930年4月の日本体操協会創立時には副会長に推され、1932年のロサンゼルス・オリンピックには日本体操チームの役員(総監督格)で参加している。
ハンドボールは、競技面での発展が国際的にも途上であり、学校体育面に力を注ぎ「学校体操教授要目」の改正委員に就任したことでいっそう熱を入れた。
1938年日本ハンドボール協会設立時には副会長、戦後も副会長・顧問などで関わったが、表舞台に立つ機会は少なかった。1966年1月、78歳の生涯を閉じた。
多くの功績の中で特筆されるのは30年代後半から東京高等師範学校を中心とした後進の指導者の中にハンドボールへの関心を抱く人を数多く育てたことではないか。
学校体育面の順調な進行に比べ“競技者”はほとんど生まれなかったが、大谷は競技ルール、戦術、技術などの研究を中心とする人材を集めていた。いずれは競技スポーツとしての開花を確信し備えたのであろう。
一方で著述を通じ「日本ではアメリカ生まれのスポーツはすぐに盛んになるが、ドイツのスポーツは紹介してもなかなか行なわれない」と苦々しげな“発言”もしている。
この問題は微妙だ。大谷が紹介したハンドボールは11人制だが、この時点で充分にルールブックなどが整っていたか、翻訳されていたかとなると裏づける動きは乏しい。「手でやるサッカーと思ってほしい」といった程度の説明が各地で行なわれていたとも考えられる。「ドイツ・ルール」(第4回で紹介)はあったが、どこまで流布されていたかさえ不明確な時代なのだ――。
第3回は7月26日公開です。