第51話・1972年 『中学生の全国大会始まる』
「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)
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ミュンヘン(西ドイツ)・オリンピックで日本は11位、優勝はユーゴスラビア。4強を東ヨーロッパ勢が占め36年ぶりに行なわれたオリンピック・ハンドボールは盛況裡に幕を閉じた。
16ヵ国を4組に分けた1次リーグで日本はユーゴスラビアと対戦、1970年のフランス世界選手権で引き分けに持ち込んだ相手、勝算を抱いての"オリンピックデビュー"だったが、相手は日本の速さ対策として複数のDFシフトを使い分け日本は14-20で突き放された。
続くハンガリー戦も落とし、第3戦アメリカから初勝利をあげたが目標のベスト8進出には及ばなかった。大会なかば、選手村のイスラエル選手団宿舎をゲリラが襲う事件があり、犠牲者を出した。急きょ追悼式が行なわれ全競技一斉に休止となり、ハンドボールのハンガリー-ルーマニア戦で大会は再開となる。
初のオリンピック日本代表選手は12人。日本オリンピック委員会(JOC)からの配分は選手11人、役員1人の厳しさ。フルエントリー選手16人、役員2人には遠く及ばず、日本協会はほかに補助役員1人が割り当てられていることから選手選考を前に正規の役員枠1を選手に振り替え12人とする案をJOCに示し了解を得た。そのあと日本協会評議員会・理事会に報告した。その結果GK2人、CP10人が選ばれ、さらにベンチ入りできる補助役員も選手登録する苦心の編成となった。
1969年のヨーロッパ前期合宿に参加した17人のうち代表に選ばれたのは9人。大会後、強化対策本部の総括は「スピードではヨーロッパ勢に対抗できる自信を得たが、パワフルなロングヒッターに欠け、あらゆる局面で全員のフィジカルと多様な展開に対応できるキャリアが不足」とされた。
大会前、毎日新聞のオリンピック連載企画が野田清(愛知・大同製鋼、現・大同特殊鋼)のゴールエリア上に飛び込み空間で逆立ちしてシュートを放つ秘技を「ムササビシュート」と“命名”して紹介、いっそうの人気となる。
開幕直前の第14回国際ハンドボール連盟(IHF)総会(ミュンヘン)で新たに設けられた大陸別理事枠に日本協会副会長・渡邊和美がアジアからの対立候補を投票で制し選出される。次大会(1976年、カナダ・モントリオール)から女子の実施が決まった。
国内では8月、全国中学生大会(1979年の第8回大会からは全国中学校大会)が名古屋で歴史の幕を開ける大きな出来事があった。
中学生の全国大会は1948年の「文部省次官通達」で規制されていたが、3年ほど前から文部省の諮問機関・保健体育審議会が国内の交通・宿泊事情などが整えられたとして緩和を議論、1969年6月「中学生の全国規模の対外競技会を社会体育の一環で年1回程度認める」との見解をまとめ7月、新通達が文部省から出た。
基準緩和の方向はそれまでにのぞいていたが、学校体育ではなく社会体育としたことで波紋が拡がった。ハンドボール界は日本協会がミュンヘン対策に傾注していたこともあるが、学校体育外とする試みに議論が集中し慎重に過ごす。ブロック大会が1952年の近畿協会、1960年の東海協会のあと途切れていたことも一因と思えた。まずブロックの拡充をの声だ。
全国大会を熱望したのは愛知県協会で“ミュンヘンとの併行”を再三アピールしたものの日本協会は「早くても1973年夏から」との姿勢だった。
ところが1971年夏、すでに10を超すスポーツが「中学の全国大会」を実施している現状にも刺激されて、年が明けて日本協会内に中学問題検討常任委員会が設けられ一気に「今夏、名古屋で開催」へと走った。社会体育での議論を抱えたままの初大会は男子10(1道1府8県)、女子9(1府8県)が参加、13競技目の全国大会(夏季)だった。
第52回は9月13日公開です。