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霊的な成長方法7

メンタル面での心掛け(五感も含む)のような手法を紹介してきたわけですが、何より私たちは肉体を持って、この世に顕現してきています。この肉体の手入れをする事(健康維持)及びこの肉体に重なり合うように存在すると云われている幽体や霊体とのバランス調整も大切な事です。

肉体の手入れ方法としてどのような手法があり、また応用できるのでしょうか?治療法としては、医学的治療は主に肉体を焦点としていますから別として、いわゆる民間療法があります。民間療法には、土地の風土や信仰によるシャーマン・祈祷師などによる治療行為から、漢方医学や鍼・灸・按摩・指圧など、更に近年においてはホメオパシーやカイロプラクティック、断食療法・催眠療法・各種整体など、様々な療法があるようです。

治療法以外には、自分で調整できるものとしてはどのようなものがあるでしょうか?太極拳も良さそうですね。ヨガもチャクラによる肉体と幽体・霊体との接点調整には有効のように思います。クリヤ・ヨーガは、クリヤー・ババジ・ナガラジによって復興され、18のシッダたちによる伝統的な教えと技法を統合したもので、個人に存在する肉体的、生気的、メンタル的、知性的、霊的レベルの5つの側面に統合的な変化をもたらし幸福と平安を見出す科学的な技法(by wikipedia参照)のようです。いずれも私は詳しく知りません。

また、日本には野口晴哉(はるちか)氏の創り上げた「野口整体」があります。「整体」という言葉は野口氏が創り上げたと言われていますが、現在用いられているいろいろな治療法の混在した一般的ないわゆる「整体」と区別されるために「野口整体」と言われています。

野口氏は、初めのうちは独自の「整体操法」を治療法として活動していましたが、治療する事を止めて、自らの活動を「体育」であると位置づけるようになりました。
一人一人が自分の生きている力を自覚し、それを発揮するように誘導していくことこそが、本当だと気がついたそうです。人の力を借りないでも丈夫になる、これが野口整体の考え方です。

この野口整体の考え方を伝えるために、活元運動というものを公開しました。人間の運動系には錐体路という経路があります。ところがそれ以外に、錐体外路系といって、錐体路系に依らない運動の様式があります。この錐体外路系の働きを訓練するのが活元運動です。

この日頃意識しない運動、潜在意識下の云わば「本能(無意識)で働いている運動」を訓練して敏感にしてやれば、消化器を丈夫にし、体内の自家用薬もより多く生成し、体の運動機能も正常に戻り、運動神経も本能レベルに高め、生命力を増すようです。

これは、スピリチュアリズムから見れば、この世で生きてきている間に(前世から持ち越されているものもある)潜在意識に蓄積された記憶(癖や好み、性質)に制約され、本来の本能的な運動、思考にガードがかけられた状態から解き放つような作用をするのではないでしょうか。

彼は次のように述べています。

自分の心で、自分の頭で病気をつくっている人、病気を保身術と心得て、治ったら大変だと思っている人達、病気を保護色の代りに使っている人達・・・そういう依存する心を他へどかせば体はよくなるのです。

同じ強情を張ったりしても、心で強情を張っているのか、腰が強張っているからなのか、腎臓が怠けているからそうなるのか、また苛々するというのも胃袋がつかえているからなのか、胃袋が悪くて不愉快なのか、不愉快だから胃袋が悪いのか、その判断は難しい。けれども、胃袋の働きが増えれば、不愉快はなくなるのですから心と体は別々ではない。心と体を分けるということが間違いの因で、人間は心も体も、もともと一つなのです。

元気とか、不機嫌とか、気という言葉はいろいろに使われておりますけれども、さて、その気とは何かというと、なかなか答えられない。外国の人達は、オーラとか、ミトゲン線とかいう言葉で説明しておりましたが、それらを丁寧に観ていきますと、それらはみんな体の中にある細かい物質の分散なのです。しかし、私という人間の気とは、そういう細かい物質の分散ではなく、分散する力なのです。だから精神の集注の密度が濃くなると、気はさかんになります。体を動かすことが活発になると、気もさかんになります。

食欲がないなどと心配するのは、人間は食べることで生きているもの、と決めつけているからです。人間は普通、六週間分は体の中に溜めているのです。それを、一食抜いたらフラフラしたなどというのは、自分の頭がフラフラしているのです。六週間を越してからフラフラするというなら、体の実体を感じ取ったと言えるのです。

生きている者は、お腹が動いているからお腹に力がある。丹田を充たせば健康になるというが、死体には丹田がない。そこでまず、お腹を興味をもって観てゆきました。すると、死ぬ時に出てくる共通の変化がある。それが今でいう禁点の硬結です。禁点に硬結が出ると四日目に死ぬのです。

みんな、体ははじめからこわれるものとして見ていますが、寿命のある内は生きているし、治っていくのです。いよいよ力が出てくるし、訓練されていくのです。鍛錬されていくのです。もっと丈夫になっていくのです。そして寿命がなくなってしまえば、守ろうが、庇おうが死んでいくのです。それを繰り返しているのです。中には、整体をしたら死なないなんて考える人がいるかも知れません。整体しても死ぬときは死ぬのです。しかし死なない内は生きているのです。死なない内は丈夫になっていくのです、使ってさえいれば・・・。
(整体法の基礎 野口晴哉 全生社)

少し「霊的な成長方法」から逸脱してきましたが、肉体がクルマならば霊魂は運転手であり、乗りこなすクルマも日々、手入れをしたあげないと錆びてきたり動かなくなったりしますね。この現界(地上界)では、肉体も大切にしてこそ、霊的な成長も望めるのだと思います。

更に、下記に「整体法の基礎 野口晴哉」より抜粋します。

人間の生命は、黴菌が入れば熱が出て消毒し、あとは脂も廻るようになっているのですから、却ってそういうことを通して力が出てくるのです。
それでは、具体的にどうしたらいいか、問題はたくさんあります。潜在意識の面に働きかけて、感じ方の角度を変えていく潜在意識教育の問題と、体の面に直接働きかける問題とがあります。活元運動は、後者の体の面に直接働きかける運動で、体の中にある力を動員する方法、意志によらないで動いてしまう錐体外路系を訓練して敏感にしようとする方法です。

活元運動は、本来、誰でもやっています。欠伸をするのも、くしゃみをするのも意識しない動きです。びっくりして跳び退くのも、転びかけて転ぶまいとするのも、みんな活元運動です。意識しないのに、人間は誰も自分で正常な状態を保とうとする運動をしているのです。悪い物を食べて吐くのも、理由もなく頭を掻くのも、また同じことです。では何のために頭を掻くのか、頭部を刺激してやれば頭の働きが増えるのです。しかし実際にはそういう理屈を知らないでそれをやっているのです。

さらに簡単な例としては寝相です。身体の右側だけに余分な力が偏っている人は、右足を左足の上に載せている。食べ過ぎた人は両足を広げて、大の字になって寝ている。足を高く上げている人は、頭の中だけ忙しい人です。足を上にあげることで、頭の疲れが休まるからなのです。このように人間は絶え間なく活発に、意識するしないに拘らず、外路系運動を行って、自律的に体を調整しているのです。私は、熱が出るのも、くしゃみをするのも、下痢をするのでも、活元運動と観ているのです。

このような無意識な運動を意識して行うようにすると、意識しない運動が非常に敏感に起こるような体になるのです。ですから、意識して活元運動をやるのは、活元運動が必要に応じて敏感に出るような体にするための訓練なのです。

活元運動の誘導方法は、邪気を吐き切ったあと、息を吐きながら背骨に力を入れて急に抜いて目を瞑っていると、ひとりでに動いてくるのです。なにも不思議な動きではないのです。背骨に力を入れるのですが、ただ力を入れると息を吸ってしまうので活元運動は出ないのです。息を吐きながら力を入れる。しかも自分の呼吸の速度よりも速くか、ゆっくりか、その速度を破れば出やすいのです。

人間の動作というものは、力を入れると息を吸い込み、息を吐くと力が抜けてしまう。それが自然なのです。呼吸の速さは、動きの速さなのです。この自然な流れを破ることが活元運動に繋がります。つまり、鼻の中にコヨリを入れると、体にとって不自然なために、それを拒否する働きとしてくしゃみが出る。それと同じように背骨も、ちょっと無理な動作をすると反発が起こり、活元運動が出易くなるのです。
だから、ハアーッと、息を吐きながら背骨に力を入れる、その動作の速度が、呼吸の速度と違う場合に、それに対する反発が起こって活元運動になるのです。

その動き出す前に、もう一つ条件があります。それはポカンとすることです。これを「天心」といいます。寝る前にポカンとするとすぐ眠ってしまいますが’何時に起きよう’とか’早く寝なくては’とか考えると却って眠れないように、ポカンとすれば誰でも動き出します。

手の動く人もあれば、体の動く人もあり、その動きはいろいろですが、その動きが終わるまでやればいいのです。可笑しいことを我慢すると、却って吹き出してしまい、悲しいことも、我慢していると涙がドッと出てくるように、活元運動も、訓練の内は途中で止めると却って強く出るようになりますから、活元運動が出だしたところで止めることを何回か繰り返しますと、非常に出やすくなり、それを続けると、何かあった時にひとりでに活元運動が出るようになります。
(整体法の基礎 野口晴哉 全生社)

個人的には、15年ほど前に野口整体を知り、独学で活元運動に取り組んだ事がありました。なかなか運動は出なかったのですが、続けて行っていくうちにかなり激しい運動が出始めました。(ちょっと他人様には見せられないような動きです・笑)
その後、縁があって野口整体と関わりのある整体教室の活元運動のワークショップに参加したのですが、やり方は間違っていなかったようで、よい確認になりました。
最初から活元運動の仕方を習ってしまうと、どのような動きが出るのかと人と比べてみたり、先入観が入りますので、かえって良かったかなと思っています。

ラジオ体操や自彊術など、型にはまった体操も肉体調整の面ではとても良いと思います。しかし、私たちは一人一人違います。生活習慣も違いますし、職業病のように酷使する部位も違います。前世から持ち越されている精神面も違うでしょうし、育ってきた環境も違います。対人的に向き、不向きや緊張状態の度合い(肩凝りなど)、ストレス発散の方法(やけ食い、やけ酒など)なども違うわけです。これらの要素だけを見ても、当然、身体に負担となる箇所も違うでしょう。

一人一人動きの違う活元運動によって、一人一人の異なった弱っている箇所や、疲れている箇所が活性化され、強化され、敏感な反応になれば慢性的な不調の状態から回避できるようになるのかもしれません。

また、活元運動が出始める時間、運動が出ている時間は、頭の中が空っぽな状態であり、自分自身を客観的に見つめる時間でもあります。それもまた動きのある中での瞑想であり、精神面にも有効であるように思うのです。

人は、通常の状態では、全力を出し切ったつもりでも70~80%の力しか出ていないそうです。100%の力を出すと壊れるような負担が体にかかるために、本能的?にガードされているようです。そして危機的状況に陥った時に、このガードがはずれ、いわゆる「火事場の馬鹿力」が発揮されるようですが、活元運動をやり続けていれば、この「馬鹿力」も出易くなるのかもしれませんね。

最後に、野口晴哉が「宗教」について触れている箇所がありましたので、下記に「整体法の基礎 野口晴哉」より抜粋して「霊的な成長」は今回の投稿で終了します。

戦争の直後に、いろいろな新興宗教が出来たころ、宗教をやる人達は何か不思議なことをやらないと都合が悪いのでしょう。私のところに精神集注する術や、活元運動や愉気の方法を習いに来ました。教えたのが良かったのか悪かったのか・・・今になってみると、その人達は外路系の体育としての活元運動をやらないし、精神集注の術として愉気を行わないで、それをみんな信仰のお陰だと言って、奇跡を行ったつもりになっている。しかし活元運動も愉気もそういうものではない。私は、総ての人がもっている力、自然の動きとして、受け容れて欲しかったのです。そのように受け容れられていたならば、こんなに病人が多くはならなかったと思うのです。
実際、信仰や徳や修行でやれるようになったなどというために、誰れも自分の裡なる力に目覚めない。活元運動は、自分の裡なる力に目覚めて、初めて自分のものになるのです。それを、みんな偉い人の徳や所為や、信仰の所為にされてしまうことは大変迷惑で、その当時、教えたことを、今になってちょっとがっかりしています。
(整体法の基礎 野口晴哉 全生社)

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ps:「野口整体」について、下記にも投稿したことがあります。重複している個所もあるかと思います。また、活元運動について、クンダリニー症候群や、憑依現象と捉える考え方もありますので参考にしてください。



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