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キリスト教徒の誤解 イエスの赦しと救い

この記事は、キリスト教、神道、仏教・・・と様々な宗教に触れてきた筆者が記事を書いています。

ここでは一部のキリスト教徒の誤解として、「①イエス様は優しいから、キリスト教徒は結局赦してくれる」「②キリスト教徒は救われて、異教徒は救われない」という点について解説致します。一部、以前の記事「聖書のイエスの教えとキリスト教の教えには大きな乖離があった」とかぶることをご了承ください。

キリスト教徒の一部での話すが・・・

キリスト教を知らない一般の方のなかには、クリスチャンであればみな優しいというイメージがあるかもしれません。しかし、キリスト教徒の中には、非常に敬虔で魂レベルの高い人から、きわめて現世的で隣人愛から遠い人まで様々存在します

多くの人が見ているときは喜んで善人の振る舞いをするのですが、裏では利己的で隣人愛から平気で離れたことをしてしまう・・・残念ながらそんなことができる人が一部いることは否定できません。

また、ネット上の一部の意見ではキリスト教徒は傲慢という意見をいくつか見つけることができました。※ネット上に書かれていたことで、私の意見ではありません・・・。

それでは、これについて私個人の考察で書きたいと思います。

なお、これから書く内容はキリスト教徒の全員の特徴を書いているわけではなく、ごく一部のキリスト教徒のことであることを、予めお断りしておきます。

キリスト教の「罪」とは?

キリスト教の「罪」とはギリシャ語の「ハマルティア」が訳されたもので、「的外れ」という意味合いがあります。

そのため、キリスト教の「罪」は犯罪的な強い罪を意味するというイメージではなく、仏教の「悪業」「罪穢」神道でいう「内面の穢れ」といった、イメージに近いといえます。

個人的な解釈では、キリスト教の罪=「悪業・悪口による罪穢」と理解しています。

キリスト教徒の誤解① イエス様は愛なので結局は許してくださる

まず、キリスト教徒の誤解の一つ目は、大罪でない限り、「イエス様は優しい人、無償の愛、無限の愛なので、キリスト教の信者で日々祈りを捧げていれば結局は許してくださる」というものです。

日曜の礼拝またはミサに頻繁に参加することで、「イエス様に近い私は、全て罪を許してくださる」=「キリスト教徒だから天国に入れる」という考えを潜在的に持つ人がいるということです。

また、カトリックでは「告解」があるので、告解で罪を述べれば、神からお咎めなしに全て許されると思ってしまいます。

たしかに、人は潜在的に罪がない状態、罪が消えたと思うことは、とても良いことです。なので、罪の意識が消えているのは理想的な状態といえるでしょう。
それは、神社の罪穢れのお祓いによる効果からもわかります。また、ヒプノセラピーによって罪を消す効果からもそれは正しいといえるでしょう。

しかし、「キリスト教徒である限り・・・イエス様は結局は何やっても許してくださるので、多少の小ワルいことであれば際限なく許してくださる」・・・「どうせ天国に入れるので多少は好き勝手にやってしまえ」と思ってしまうと話は別です。これは、罪は赦されるという前提で次々と罪を犯すことになるからです。

大罪は避けるけど、小ワルいことはたくさんできてしまう・・・という人がいるとすれば、ここから来ているのかもしれません。

イエス様が「結局」許してくださる・・・これはある程度まではその通りのように思いますが、それを予め目論んで「私はイエス様に近いから赦される=天国に入れる。だから利他的なんでどうでもいい」という姿勢は・・・ちょっと違うのでは?と私は思います。

これは、その人たちが意識してそのようにしているというのではなく、無意識・潜在的にそういう部分があるのでは?と思われるのです。

根拠① イエス・キリスト「人を7の70倍赦しなさい」

なぜ、このような誤解が生まれるのかというと、その根拠のひとつに、新約聖書のマタイの福音書18章21~ イエスと弟子のペトロの会話に次のような内容の箇所があることによります。


ペテロ「主イエスよ、兄弟が私に対して罪を犯したとき、何回まで赦すべきとお思いでしょうか? 7回まででしょうか?」

イエス・キリスト「7回どころか・・・7の70倍赦しなさい」


上記は、『人が他者に対して許すべき回数』を示されたのですが、これを「神様だって私たちを7の70倍赦してくださる」と思ってしまう人が中にはいるわけです。

キリスト教徒であれば特別に・・・「神様は無条件で7の70倍、赦してくださるのか?」

果たして、神様はキリスト教徒に対して7の70倍、何一つ、お咎めなく赦してくださるのでしょうか?

イエスキリストは、「神様が7の70倍赦してくれる」とは、聖書の中では一つも言及されていません。イエスは「人を赦せば赦される」とは言っています。しかし、神様が7の70倍赦してくださる、とは言っていないのです。

イエスは宇宙普遍の法則から・・・人を7の70倍赦しなさい、そうすればあなたは赦される、と説いているわけです。天や宇宙が7の70倍赦すという意味ではありません。

根拠② マタイ福音書9章「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている。それが、あなたがたにわかるために」

根拠の2つ目は、マタイ福音書の9章6節に「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている。それが、あなたがたにわかるために」と言って、中風の人を癒す奇跡を見せました。

このことから、イエス・キリストは「罪を赦す」という特権を天から授けられたということがわかります。これを信じるかどうかは人それぞれですが、ここではとりあえず事実として受け入れる前提で話をすすめます。

また、イエスの御業からその特権が実際に天から与えられた可能性が高いといえます。

そのため、心から罪の許しを請う人にはイエスによる罪の許しは可能性として十分ありえるでしょう。それは、利他的に生きていて、計画的ではなく純粋に侵す過ちに適応されるもの。

「どうせ罪の赦しがあるんだ」という前提で、平然と罪を犯す人に、果たして何のお咎めもないのでしょうか?

教会はまるで「神は愛なので、信者の方へのお咎めは一切なく限りなく赦します」「教会にきて信者になって、懺悔すればすべて罪はチャラで罪の報いは受けずに済みます」とまではさすがに言ってはいないものの、それに近いイメージがあります。

ヨハネ5章14節で「さらに悪いことが起きないように、2度と罪を犯してはならない」と述べられています

イエスは「神が無条件で際限なく赦すわけではない」ことを明確に述べています。その根拠として、ヨハネ5章14節です。

ヨハネ5章のなかで、イエスは罪によって病におかされた人を本人に気づかれないように癒し、その人が名乗り出た話があります。

そのあとに、イエスは癒された人に向けて次のように戒めています。


イエス・キリスト「さらに悪いことが起きないように、2度と罪を犯してはならない


「たとえイエス様に罪を赦す権威がある」にせよ、やったことの報いは受けますよ、ということです。たとえ神が赦してくださるにしても、悪事の報いはうけるのです。

聖書からわかることは、「純粋な気持ちでイエス様に罪の赦しを願うことは正しい姿勢ということ」「イエス様は罪を赦すことができる」ということです。

いっぽうで「赦し前提ありきで次々と悪事をしたり、利他性のない生き方をするのは、悪事を繰り返すのでイエス様の御心をふみにじることになり、それを天は喜ばない」ということです。

スピリチュアルの世界での定説は?

さて、ここでいったん「スピリチュアルの世界」に向いてみましょう。

スピリチュアルの世界の一般論では、やがていつか天は罪穢を赦してくださる・・・は可能性としてはありうる話です。

しかし、赦されるまでには、今世または来世にそれ相応の浄化(業・因縁)が必要で、一見すれば嫌な因果応報を受け、「こんなひどい目にあうのであれば、やらなければ良かった」とスピリチュアル的に魂が成長する必要があります

キリスト教徒の誤解・・・というのは、『教会で祈ったり、ミサを受けたり懺悔すれば、自分のやった悪事を神様からお咎めを受けずに、無条件で赦してくださる』という誤解です。それが前提にあると、隣人愛に反することが平気でできてしまいます。

礼拝やミサ、祈りに熱心でありながら、隣人愛とかけ離れた態度、人が見ていないときの弱者救済などどうでもいい姿勢・・・それは、誤った信仰から来ているといえるでしょう。

結局、その報いはやがて本人が刈り取ることになるわけです。

上記の記事にて、イエス・キリストが言う「神から救われる人の条件」について書きました。それを改めて簡単にここで書くと・・・。

マタイの福音書25章でイエス・キリすトは「一番小さい人(困っている弱い人)にすることは、私(天の神)にすることと同じである」と述べています。そして、それによって救われるか、救われないかが決まる・・・すなわち、赦されるかどうかのカギがある、ということです。

「困っている人を救う人は、天国に入れる資格がある」とイエスは示されているということです。

神から救われるためには、キリスト教徒であるとか、礼拝やミサにたくさん参加するとか、イエス・キリストご自身は直接言及されていません。一番大切なのは、「実際に人を救うか否か?」「利他的な生き方を実践できているか?」なのです。

困っている人を、なんとも思わない、悩んでいる他者を救おうと思わない・・・このような姿勢は、イエスのエッセンスに反しているといえるでしょう。

バチカン市国(カトリック総本山)で、犯罪者はすべて神によって許されるのか?

ここまできてまだ「神は無限の愛だから、キリスト教徒は特別に罪を赦してくださる」という考えがある方は、一度、バチカン市国を振り返ってみてほしいと思います。

バチカン市国だって刑法はあるし、何かあればしっかり法で裁かれます・・・。もし、キリスト教徒の罪は特別にゆるされるのであれば、バチカン市国だって、一切の裁きの制度が無いことが理想でしょう。

しかし、現実的にはバチカン市国だって、普通の国と同じような司法制度があります。そして、なにひとつ一切罪に問わない社会というのは決して理想的でないことがわかります。

こうすると、「キリスト教徒になれば無条件ですべて神から赦されること」が果たして神の愛なのか?という疑問にたどりつきます。

悪いことをしたら、それ相応の報いを受けること・・・まいた種は刈り取ることこそが、正しい神の道ではないかと思うのです。

スピリチュアルの世界では、人は現世での報いをこの世またはあの世で受けると言われており、これが因果応報です。

一部のスピリチュアルの指導者は「あの世では現世での善悪について裁判が実施される」といいます。たしか、仏教の一部宗派では、あの世で裁判があって、様々な仏様が出てくる・・・という教えがありますよね。

そして、生まれ変わりの現象は世界的に起きており、キリスト教国でさえ、認めざるをえない人が増えつつあります。その生まれ変わりのなかに因果応報をよく見ることができます。

現世での報いは必ずいづれやってきます。赦されることはあるにしても、完全なチャラではなく、大難を小難へ・・・とそれ相応の報いを何割か受ける、これが多くの偉人によって一般的に言われている宇宙の法則です。

ただし、やむをえず悪さをしてしまった人にとって、赦される方法が全くないわけではありません。それに相応しい量、それ以上の善を実践することで、100%近く赦されることもある。と言われています。徳を積むことで観世音菩薩によって、罪穢を払拭してもらい、奇跡が起きたという話もあります。

キリスト教徒のなかには、死後の世界を極端にとらえている人が結構います。

死後、普通の霊界で暮らし、生前の報いを受ける・・・という可能性を抱かないと、極端な考えにたどり着き、「大罪を犯したりしなければ、死後に全てお咎めなして天国に入れる」・・・「天国に入れば生前の報いは一切受けないのだから、生きている間に多少自分勝手に何やっても許される」と、無意識のうちに、そのような姿勢に染まるわけです。

キリスト教徒の誤解② 「キリスト教徒は救われる。キリスト教徒でない人は救われない」

もうひとつの誤解として、「キリスト教徒は救われて、キリスト教信者でない人は救われない」という概念があります。だからキリスト教に改宗して入信しなさい、ということです。それについて、ひとこと書かせていただきます。


マタイ9章13節
イエス・キリスト「私が来たのは義人(善人)を招くためではなく、悪人を招くためである


このように、イエス・キリストは「イエスとの関係なしに、善人は救われる」ということを、暗にほのめかしており、イエスは悪人を救うために来られたことがわかります。

キリスト教に改宗しなければ救われない・・・という教えは、実際のイエスの教えと違うのです。

イエス・キリストは「逆らわない人は味方」と言っていますし、救われる人というのはその人が「利他的で人を救う人か?」「善人か?」で決めているエピソードがたくさんあります。「キリスト教徒だから・・・」という理由で、救われるか否かをイエス・キリストご自身は述べておられません。ここに鍵があります。

イエスの教えをたいして信じないけど教会に来るというパターン

あとは、イエス・キリストの教えをたいして信じてなく、聖書や教えなんてどうでもいい、ただ教会で人との出会いがあればいい、という人にとっては、利他性などどうでも良いというわけです。

このようなパターンの場合は、神への信仰心が薄いので、ここでは議論しないことにします。

おわりに

私は、キリスト教を批判するために、この記事を書いているのではありません。そこを大きく誤解しないでいただければ幸いです。

キリスト教の人で、神父様から信者まで、人の手本になる人はたくさんいるからです。コルベ神父などはまさに人のお手本と言えるでしょう。

そうではなく、キリストへの信仰心が厚く、多くの祈りで敬虔であるにもかかわらず、平気で困っている人を見捨てたりしてイエスの教えを実践できていない人たちが、イエスのエッセンスに気づいて立ち戻り、正しい神の道を歩んでもらいたいと思っています。

「自分を救おうとするより他者を救おうとする・・・そのほうがかえってあなたは助かる」これは誰の言葉でしょうか?

礼拝があるから、ミサがあるから・・・といって困っている隣人を見捨てて祈りを優先するのは、イエスの教えからすれば本末転倒です。

また、イエスキリストの言葉は、キリスト教の教えと矛盾したり違う部分がある・・・それを皆さんに知っていただきたいと思っています。

あと、私自身、十分利他的に、清らかにできているかというと、偉そうに人にいえる立場ではありませんし、私は聖人的なお手本のような人ではなく俗人の一人ですので、ここは利他性について、私もできる限り世の中に貢献できるような人を目指して努めたいと思っています。

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