時流に逆らう芸術 稲田万里著「全部を賭けない恋がはじまれば」を読んで
ノーベル文学賞の受賞者に、怒られたことがある。それは2016年の春のベルリンで、前年に受賞したベラルーシの作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏に会った時だった。ジャーナリスト出身の同氏は第2次大戦で従軍した女性の証言をまとめた「戦争は女の顔をしていない」などの著作で知られる。
「ジャーナリスティックな仕事がノーベル賞受賞という形で認められたことをどう思われますか」。私がそう聞くと、同氏はそれまでの温和な表情を一変させてこう言った。「私が書いているのは新しい文学で、ジャーナリズムとは違うのよ。なんでわからないのかしら」
フィクションだからといって人生の真実を語れないわけではないのと同様、本当に起こった話を取り上げたからといってそれが自動的にノンフィクションになるわけではない。つむがれた多くの証言をある秩序の下で構成し、1つの世界をつくりあげるのは文学的な営みにほかならない。
しかし、それは至難の業でもある。事実、とくに悲劇的な運命にさらされた人々の話を取り上げるのなら、それを都合良くゆがめるのは道義的に許されない。一方で、事実をいくら叙述していても、かなりの編集のスキルがなければ読むに堪えるものにならない。
こうした制約の中で一つの作品を紡ぎ出すのは綱渡りのようなぎりぎりの曲芸でもある。同氏がノーベル文学賞を受賞してもなお、自身が直面してきた困難さに関する理解が進まないことにいらだちを募らせていたのは想像に難くない。
私が稲田万里氏の第一作である「全部を賭けない恋がはじまれば」を再読した後に思い出したのは、アレクシエーヴィッチ氏のことだった。本書は私小説的な短編集で、男女の性愛や生と死の問題をテーマに様々なキャラクターがスケッチされている。それ自体は実体験をテコに、鮮明な描写を生み出すという伝統的な小説の手法に沿ったものといえる。
本書で最も面白い点は、そうした一つ一つ独立したスケッチの積み重ねが、一つの確固たる世界を作っていることにある。その綱渡りの編集は、デビッド・ボウイのコンセプトアルバム「ジギー・スターダスト」の収録曲の曲順も想起させる。
ちょっとでも一つ一つのピースの配置を変えてしまうと、全く別の作品世界に変容してしまう。読後感も全く異なるものになってしまう。それは一度読むだけでは堪能し得ない深みがある。誰がアレクシエーヴィッチ氏の文学世界を、そしてジギースターダストの曲順の意味を短時間で理解し得ただろうか。
現代のネット世界はコンテンツであふれており、大量に消費するために一回きりで消化できる薄っぺらさが望まれるようになった。倍速で観られることを前提にした動画も少なくなくなった。それは噛めば噛むほど味が出るという文学作品の本来のあり方とは対極にある。
そして、一見書きやすそうな形態ほど、まともな質のものを書くのは難しい。小説なら短編の方が長編より書くのは難しく、短編よりもエッセイの方が難しい。それは、短編集から文学的なキャリアをスタートさせる人が少ない一因でもある。短編集としての本書を成立させたスケッチの面白さは、著者の才能によるものだろう。ただ、構成の妙には、著者の理解者の存在を感じざるをえない。
本書はすべてスマホの画面で書かれたと聞く。そういう意味では極めて現代的であるが、構成を含めた内容面では時流に逆らう文学的な綱渡りを演じている。そしてロープから落ちそうになりつつも、渡ろうとする、そして渡りきる著者の姿に私は感動を禁じ得ない。そして困難な道を行く筆者を支えた人々の姿にも。
一つだけ本書で不満があるとすれば、それは男性の局部の表現にある。男性にとって睾丸には特別な意味がある。それを「キンタマ」の一言で片付けることには、多少の抵抗感を禁じ得ない。それは筆者が女性だからということもあるだろうが、睾丸の表現にあたってはその重さに見合うようにもっと言葉を尽くして欲しいと願う次第である。
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