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小野りりあんの説明書

80億人以上いる地球で、
ちっぽけな私がどんな人間なのか、興味を持ってくれてありがとう

どんな理由でこのページにきたか
わかんないけど、なんとなく探していたことの答えが
ここで見つかるよいなと思い、大ボリュームにしてあります

目次あるので
ささっと、飛んで読んでくださいな

ではでは、早速始めましょう〜。

私のライフストーリーのはじまりはじまり〜

幼少期、北海道で育った。冬の好きな遊びはチューブ滑りとかまくら作り

1989年青森県八戸市生まれ、
両親の離婚を機に3歳から母と姉と北海道札幌市で育ちました。
👩母は、津軽生まれの八戸育ち。
👨父は、スコットランドのルイス島で生まれ育ち、スコットランドと北東ドイツのハーフ。
というわけで、私はどこをとっても北国のDNA❄︎
冷たい空気に触れるとホッとするのがその証かな⛄️

色々なことによく疑問を持ちつつ…
踊るのと自然が大好きな子どもでした

ここら辺で一旦、目次です👇
気になるところに飛んでみて💁‍♀️


子供の頃からの夢

世界中の人が
手をつないで
ひとつの地球に住む

冒頭から、スゴイこっぱずかしいんだけれど…ど正直に伝えると
これが私が子供の頃から想像してる理想の世界です🤝🌍🤝

家族同士ぶつかることが多々あった家で育ち、社会問題にも関心がある両親に育てられた背景があるからなのか、結構早い時から世界中の人が仲良く生きてる世界がいいなぁって願うようになりました。

美味しい空気と水がたくさんあって
しんそこ平和な世界で毎日色んな人にかこまれて笑って生きれたら
一生独り身だとしても、中々幸せなおばあちゃんになれそうだなぁ〜と老後を夢みる子どもでしたw

しかもなんか、自分のコミュニティだけじゃなくて、
本当地球上どこもそんな感じの世界じゃないと納得いかないなぁって思ってた。

いい意味でも悪い意味でも夢が大きく理想が高い。
これは今も正直、変わらない。

そして
今ある世界は、この景色とは程遠い。
だけど、時々そんな景色が小さい規模でもみえたり、
心の中で芽生えたりします🌱
どうやったら、そんな環境で生きていけるんだろう?ってのを色んな経験を通して探求している人生なのかもなぁって最近思ってます。

何をしてきた人間なのか

モデル時代

基本的にファッションモデルとして生きてきた時代が長いです。
元々ダンサーになるのが夢だった私は、スカウトをキッカケに中学生の頃から、バイト感覚で東京に通いはじめました。
ただ、ずーっと自分はモデルという自覚がなかったのです。
(みんなでつくるアート表現の一部になるのが楽しかっただけ)
モデル歴10年過ぎたあたりから仕方なくモデルであることを認めました😅

日本を中心に国内外の雑誌やショー、CMなどのお仕事をさせていただきました。

若い頃から才能溢れた、やさしい人たちと笑いながら仕事して、
本当に楽しい日々を過ごせたことをとても感謝してます。

(最近は、気候変動を止めたいと方向性を改めている企業や大量生産的ではないビジネスをされている方々を中心にお仕事を続けさせていただいてます。連絡はモデル事務所にお願いします。)

本格的に気候アクションの始動


2019年秋からモデル業から気候アクション側に本格的にシフトしました。
理由は、気候変動が地球環境が危機的だと感じたから。
平和な未来を残すためには、今行動をしなきゃって思ったから😨💦
数年前から、様々な環境活動に少しづつ参加してはいたけれど、これ以上のことをするには
何をどうしたらいいかわからなくて、
それで世界中の気候変動活動家たちにアクションのヒントを求める旅に出ました🥹❤️‍🔥

それは、本当に世界一周する旅で…
できるだけエコに気候変動のためにできることを学ぶ旅にしたかったから
まずは、飛行機に乗らずに日本から国際的な気候に関する会議COP25が行われたスペイン・マドリードを目指す旅をしました。


ロシア、シベリア鉄道での旅の道中
国際気候会議COP25に参加した時(正式名は国連気候変動枠組条約締約国会議)

そのあとは、一度は飛行機に乗ったものの、
メキシコから貨物船に乗って日本に2020年の2月に帰国しました。

詳しくは、この記事とインスタのハイライト、過去の投稿を見てもらえたら嬉しいな。

世界一周の旅から帰国した方法は、貨物船🚢✨

メキシコから日本へ貨物線で帰ってきた時

帰国したときにちょうどコロナが日本でも流行りだしてたから、思うように気候アクションができなかったけれど、
活動家たちの拠点にもなるように都内でアクティビストのシェアハウスをはじめたり

アクティビストハウス初期メンバーと

旅の途中LAで久々に再会した先輩モデルの(現在俳優)岡本多緒ちゃんと環境系のPodcastをはじめたり

コロナ中インスタを中心に気候アクションの発信を頑張っていたことをきっかけに、オンライン環境コミュニティGreen TEAを立ち上げたりしてきました。

沢山のみんなの願いと声が届くように動いたら、
成果としては、メディアが気候変動を前より報道するようになったり
長野県が1.5度目標と整合するような2030年までのCO2削減目標を掲げたり、
断熱の法律が前に進んだりして、
行動して声を届けると社会構造を変えて行ける希望があると実感しました✊✨

そんな中で2021年。日本にとって気候対策のメインになってくるエネルギーについての方針が決まるということで、どうにかして1.5度目標に整合したCO2削減目標を掲げてほしい!と思い、友人であるeriと共に4日間、水と塩のみで生活するハンガーストライキと3日間の気候変動教育配信を水原希子さんと二階堂ふみさんとKOM-iさんと行いました📢✨ 

DEPTカンパニーのeri とたくさんの人のサポートを得て実践できた7日間の様子

最終日には600人が24時間の「共鳴のハンスト」にジョインしてくれて、国にプレッシャーをかけたけれど、1.5度には整合しない43%という目標で終わってしまった 😔

皆さんの声はPeaceful Climate Strikeのインスタで確認できます

だけれど、このアクションを通じて、環境系に仕事を転職したり、職場での取り組みを始めたりなど、沢山の人がより真剣に気候変動と向き合うようになったと伝えてくれました👏🌍
2021年は, 2019年からずっと夢見ていたFridays For Future JapanのメンバーたちをCOP26へ連れて行くというプロジェクトを実践し, 色んな人にインタビューする中で気候変動に対する意識を高める場を提供できました🎙️🌟

連れていくと言いながら、自らたくさん準備してきてくれて
私は言い出しっぺで活気づけしただけ

2022年は、よりハイレベルな市民運動の構築はどのように行っているかを学びに、ロンドンを中心に数カ国回りながらヨーロッパに3ヶ月滞在し、Extinction Rebellion(略してXR)の研究を実践と共に行ってきました✊📣🤓

Extinction Rebellionの運動構築方法はスマートで温かく感動することがたくさんだった

2023年は、フォルケホイスコーレのひとつであるInternational People’s College (IPC) にて世界35カ国の人と共同生活をしながら、世界情勢や抑圧の構造などディスカッションしたり、生徒を連れてデモに行ったり。あとは、ダンス、歌、ミュージカルなどのアートの活動をたくさんしてきました🌈🎨

2024年は、東京に拠点を戻し、活動家として食べていけるように色々試し学ぶ予定です☺️

経歴

1989年: 青森県八戸市に生まれる。
1992年: 両親の離婚を機に3歳から母と姉と北海道札幌市で育つ
2003年:中学1年まで: 札幌の公立学校に通学。
     中学1年秋〜: ロンドンにて、生徒の9割は有色人な学校に1年留学。
     中学2.3年:北海道インターナショナルスクール卒業。
2005年: 高卒認定試験合格後、 札幌と東京を毎月行き来しながら、ファッションモデルとして様々なジャンルの雑誌やショーに出演。22歳までフルタイムで活動。
2011年:一時休業: 芸能業界以外を経験したいとの思いからモデルを3年休業し、世界を旅する。
2011年秋: ほぼ無人島であるハンソン島に住むグリーンピース創設者の1人であるDavid Garrick(ウォレス)を尋ね、自然との近い生活を経験した。
2012年: インドのケララ州でアーユルヴェーダのパンチャカルマを実践。その後、NYで3ヶ月間様々なダンスクラスを受講。その後、カナダのバンクーバー島でパーマカルチャーを学び、アメリカのBullocks Permaculture Homesteadブロックスパーマカルチャー農園の島へヨットで訪れ、見学。
2013年: IPC Spring termを機に同世代と共に行う環境活動に興味を持ち、帰国後、環境NPO法人ezo rockでボランティアスタート。同時期モデル活動も復活。
2015年: 東京にて350.orgでボランティア活動。活動仲間と環境コミュニティSpiral Clubを設立し、同時期にYoutubeチャンネルRiri Rhythmを始める。
2018年1月、ツバルを訪ね、海面上昇の現状を見学。ツバル沈むウェブサイト制作に関わる。
2018年12月、ホッキョクグマの研究所や北極圏に住むイヌピアットの先住民たちの現状を知るためにアラスカ、Utqiagvikを訪ねにいく。
2019年: 飛行機をできるだけ利用せずに鉄道や船で気候活動家を訪ね世界一周。同時期にCOP25(スペイン・マドリード)にSALメンバーとして参加。
2020年5月: 環境系Podcast Emerald Practicesを共同で始める。Activist House~the roots~を設立。
           10月: 環境、政治、人権に関心がある人たち向けのオンラインコミュニティGreen TEAを共同設立。
2021年4月: 共同でPeaceful Climate Strikeを実施。スコットランドのCOP26に参加し、世界中からの活動家たちと各国政府へのアピール活動を行う。
2022年: 気候市民運動の研究のため、ヨーロッパに3ヶ月滞在。Extinction Rebellion(XR)のトレーニングを受講し、デモに参加。
2023年4月〜12月: IPCで世界35カ国の人と共同生活。世界情勢や抑圧の構造などについてディスカッションや発表をし、120人のコミュニティビルディングを4ヶ月間Student Teacherとして実践。
2024年〜現在: 東京へ拠点を戻す。

こんな人間になった経緯

ここから先は大分マニアックです。

いったい何故、こんな人間が出来上がったのか。
自分もずっと謎だったのですが、自分なりに分析した結果、心・アート・環境・人権の四つが軸にあるようです。
こういう経験が背景にあるためにこんな軸の人間に仕上がったのだなと思っています。

環境

①自然の繊細さや偉大さに日々感動して育つ
🏡大都市な札幌でも山の麓で育ったからなのか、
よく母が国内外の旅やキャンプに連れていってくれたためなのか、
自然の繊細さや偉大さに日々感動して育ちました🥺🥺🥺💛

②自然療法で育つ
不健康と健康を両極端に実践していた父は、
マクロビに詳しかったこともあり、影響を受けた母は、
少しのマクロビを実践するようになり、のちに東条百合子さんの自然療法という本をバイブルに私と姉を育ててくれました。
(私は、玄米などの食は、体質的に合わなかったけれど、高熱の時におでこに豆腐ペーストを布で包んで乗せてくれた心地よさは今でも覚えてます)
特にアトピーが酷かった私のために様々な自然療法を試してくれました。
(最終的にアトピーが治ったのは、姉が家を出た時。笑)

③アイヌ文化と知恵に触れてきた経験。
毎年夏8月は、アイヌの祭り、アイヌモシリ一万年祭に家族で通っていました。
そこには、国内外から集まった子どもからお年寄りまで1週間、いわゆるヒッピーと言われる人たちも沢山いて、変な人だなぁと思う人もいた。けれど、主催者であるアシリレラに育てられた子ども達との遊びを通して、アイヌの歌や踊りを一緒に歌い踊る中で、一緒に森歩きにいく経験を通して、大地とつながる感覚、自分が自然の一部であるという感覚を教えてもらって育ちました。

⑤伝説のスピーチとの出会い、環境活動家になる夢をもつ
そもそも、なんで環境活動に関心持ったかというと7、8歳の頃、母の友人がセヴァン・スズキの「伝説のスピーチ」をみせてくれたことが大きいです。森林伐採や貧困などにとても衝撃をうけて、将来、セヴァンさんみたいに私も仲間をみつけて一緒に活動したい!と強く思ったことは、今も鮮明に覚えています。

アート

①ダンス
踊ることが小さい頃から大好きで、14歳でモデルスカウトされ東京によく通うようになるまでは、本気でダンサーを目指してました。(ミュージカルとかに出るような)
ひとりで好きに踊っている時が一番生きてる感じがしてた子供時代は、踊ることが生きる源でした

②モデル業
目立ちたくないけれど、クリエイティブな表現ができる、モデルの仕事が好きでした。
表現のプロである、メイクさん、ヘアスタイリストさん、空間デザインさん、ファッションスタイリスト、アートディレクター、フォトグラファーさん、舞台演出さんなど本当様々な世界観を作り出せる方たちと10代の頃からお仕事をずっとさせてもらって、自分の中にあるクリエイティブな感覚をその場その場に合わせて誘導されてきた感覚があり、共に素敵な作品をつくれるのがとても楽しかったです。特にCMの撮影だとチームで動ける日数が増えるので、その分大きなチームで作り上げられている感覚がとても楽しかったし、自分の目が届かない範囲の人にまで見られてしまうのは嫌だったけれど、大掛かりな制作現場で表現できるのは大好きだった。

③表現先般が好き
一時は、ダンサー、一時はフォトグラファー、一時は陶芸家を目指そうとしていた自分を振り返ると。多分、自分が見てる世界の美しさを自分のフィルターを通して人とコミュニケーションをしたいんだな。って感じます。ある意味、目指したい世界観を自分で体現する方法だったのかな?とか思ってます。

人権

①社会活動をするコミュニティに触れ、育つ
両親がまだ離婚する前、青森に住んでいた頃、六ヶ所村に核燃料再処理場が建設されるということで、大自然が破壊されることや我が子の安全を守りたいという強い気持ちで母が女性たちだけの反核燃運動に参加していた頃がありました。それを家族で応援しに行っていた事をキッカケに様々な社会活動をする人々のコミュニティに触れて育ちました。大人たちの会話をいつも聞いてきたわけではないし、時に強い口調で語っている文化は好きではなかったけれど、時々耳に入ってくる情報で何となくの価値観が育ったかと思います。

②RC
私は再評価カウンセリングをやってて、私の母は日本の広域エリアの照会者の1人です。私は国際的な再評価カウンセリング(RC)コミュニティで研修を受けて、日本で若者向けにRCを母の協力を得て教えてきた経験もあります。様々なアイデンティティを持つ人々が集まり、社会的抑圧からまずは自分の心を癒すことによって、抑圧的価値観から少しづつ自由になり、柔軟な思考を取り戻すように支え合うようなコミュニティです。異なる(または同じ)アイデンティティを持つ人々との交流を通じて、個人の人生経験を共有し、社会的抑圧がどのように個人に影響するかを学んできました。そして、抑圧からの解放やサポートについてのヒントも得てきました。

③アイヌの人たちに起きたことを知る
 夏の一万年祭だけじゃなくてアシリレラのところにはよく会いに行っていたの。その中で、アイヌのモノの見方や迫害の歴史について教わりました。どうやってアイヌの人たちが北海道の中でも奥地の土がよくない所に押しやられたかとか、生活の源である川に大きなダムをつけることが環境のバランスを全体的に破壊することに繋がるのか。今でもみんなアイヌであることを隠さないと行けなくなるほどに虐げられて、差別されてきたことなどを教えてもらった。

④在日の親友家族と育つ
いつも踊って歌って人を笑わせて時に真面目な話をする私の子供の頃の大親友は、在日韓国人4世でした。本人は、在日であることを特に考えたりしていなくて、日本人の感覚でいることが多かったけれど、お母さんやお婆ちゃんたちが日本で生きてくる中での困難の経験を私もよく聞いてきていて、私自身はあからさまにハーフだけれど、見えづらい差別されりアイデンティティ持つことによる生きづらさというのも教えてもらいました。みんなが自分のアイデンティティを安心して誇れる社会がいいのになぁと考えて育ったよ。

⑤ハーフであること
自分は日本人のつもりしかなく、違和感なく居るのに見た目がいわゆる「純日本人」に見えない事で日本人(同類の仲間)として思われないことが多かった。あからさまな仲間ハズレまたは、白人ぽさへの「憧れ」という名のものと、「仲間」に入れず、遠くに押しやられる感覚は昔から結構よく経験してきたが故、人種って国ってなんだ?私ってなんだろう?と世界や自分に対して問うことが増えたのかも。

心と体

①自分の心のケアを大切に
すでに(人権のところ)上にも書いたけれど、
RCをつかってきた事で、まずは自分の気持ちを大切にする。自分を優先する。ということは結構実践してきてる。自分の心に余裕がないとまわりに良いモノを配れないなって感覚があるよ。だから、世界には解決したいこと、悲しいことが沢山あるけれど、まずは自分が行動できるくらいのエネルギーを蓄えるために笑ったり、楽しんだり、健康であるためのことをするのを一番大事にしている。

②ニューロダイバーシティ(脳神経経路の多様性)
最近(2024年)診断がおりて、その4年ほど前から何となく予想していたのだけれど、私はADHDがあります。日本の診断基準だと限りなくASDに近いグレーゾーンです。自分のクリエイティブさや物事を広く捉え、点と点をつなぐ思考はここからくるんだ!と気がついたし、多分人一倍わかりやすい言葉で人に伝えようと努力した背景には、ASD傾向があり、コミュニケーションに困難をずっと感じてきた子どもの頃があったからなのだな、と納得がいっています。もちろんこういった特徴を持った脳神経だから苦手なことも沢山あるけれど、アンテナが立っているから無意識に人一倍五感からの情報が入ってきたり、物事のつながりに気がつくことも多いんだなと思っています。

③身体のケア
体のケアも小さい頃からずっとやってきています、アトピーがひどい子どもだったから向き合わずに入れられない状況だったし、ダンサーを目指していた時代やモデルになった背景からも身体無しには仕事にならないと言うことがあり、どうやって健康であれるか、色々試してきています。心と体はつながっているから、両方の向上に力を入れがち。

という訳で大容量でお届けしましたが
いかがだったでしょうか?

きっと情報いっぱいでお腹いっぱいだと思うので
ぜひ、消化して自分の栄養になりそうな部分だけ吸収してあとはぜーんぶサラァ〜っと忘れちゃってください☺️

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