人生はダークマターに似ている
高校時代の友人と一緒に、女性専用発達障害当事者会「Decojo」(https://decojo.com/)を運営しています。
そのホームページでちょこちょこブログを書いていたのですが、会員の方から「人生」をテーマにエッセイを書いて欲しい、と依頼を受けて書いたものです。せっかくなのでこっちにも載せます。
この世にはダークマターなるものが存在するらしい。宇宙のなんと30%近くを占めているらしいのだ。
しかも、そのダークマターなるものから生み出されたダークエネルギーとかいう謎の力が、60%を占めているらしい。太陽とか地球とか名もなき銀河とか超特大なやつらが寄ってたかって残りの1割だ。
なんてすごいんだ、ダークマター。
でももっとすごいのが、ダークマターは「概念」らしいのだ。理論の辻褄が合わなくなった宇宙学者が、「もしかして宇宙ってこんなのでいっぱいなんじゃね?」とダークマターを考えてみたら、今の所上手くいっているらしい。
この大宇宙のほとんどを占めているらしいものが、人間の計算をつじつま合わせるために生み出されたというのは、なんだか映画『ミュウツーの逆襲』を思い出してくる。
話がずれてしまった。
人生も、同じようなものだ。
辞書によると、人生とは
①「人がこの世に生きていくということ」
②「人がこの世に生きている期間」
らしい。ふわっとしている。
まとめると、人間が生きることそのものが人生である、らしい。すると、人生のハードルはすごく低い。だって生きているだけでいいのだ。
それなのに、人間は生きていくために、人生について考えてみたりする。行き過ぎると、人生の意味がわからないので生きることをやめてしまったりする。存在しないくせに、なんて重大事項だ。
「人生」って、そこんとこ「ダークマター」に似ている。
そのくせ「人生」という言葉を使うと、やけに規模が小さくなったりする。
彼女に振られて、「まじで人生つれーわ」
激務の日々で、「人生ってなんなん?」
いっぱい買った宝くじに外れて、「人生こんなもんよ」。
これは全て私が現実に聞いた「人生」の使いみちである。最後に至っては、お前の人生はなんなんだい、と聞いた瞬間脱力してしまったのだが、気持ちは分かる気がする。
本気で人間の生の意味について熟考しているわけではない。ただ、辛いのである。失恋の痛み、お金と引き換えの労働、豪遊の夢破れたり。そのやるせなさは、主語を自分にすると生々しくのしかかってくる。
「失恋って辛いなあ」。
「仕事ってなんだろう」。
「こんなもんよ、宝くじ」。
お、重い。なんてリアルな悩みだ。
そんな時、主語を「人生」にしてみよう。ただの失恋を、いきなり人類みんなで背負う悲しみへとスーパーグレードアップできるのである。
そこんとこ、人生は「免罪符」に似ている。
映画の評論をふむふむ、と読んでいく。最後の〆が「人生が描かれている」だったりする。人生を描くって、人間が出とるんだからそりゃそうじゃろがい、と思ってしまうが、ツッコんではいけない。これは、「技」なのである。
思ったことをつれづれ書いていって、話の着地点がどこにもなかった。または、正直内容がよくわからない映画だった。どうしよう、結論に困る。
そんな困った事態を切り抜ける必殺技が、「人生」なのである。とりあえず、使っとけばまとまるし格好がつく。
そこんとこ、人生は「ビジネスメールの『取り急ぎ、何卒よろしくお願い致します』」に似ている。
自分が言いたいことを言うためのダシに使われることもある。
『夢クリエイター』とか怪しげな肩書の人の自己啓発ブログで、「あなたは失敗が怖かったりしませんか?」とか散々書かれた後に、「でもね、失敗するからこそ人生は面白いんです」と続く。
こういうのを読むたびに、(ちゃんと「お前の」人生と書け! 主語をでっかくして私を巻き込むんじゃねえ!)と画面の前で届かぬ怒りを燃やしたりするのだけど、これは夢クリエイターが悪いのであって、コイツの集客のためにダシにされた人生は被害者なので全く悪くない。
ヤフーニュースのコメント欄で見る、「それもまた人生」とか一言だけ書かれているヤツもこの仲間である。
特に鋭い意見もないけど、一言言っときたい。しょーもな。
そこんとこ、人生は「クソコメント付きでリツイートされるツイッター記事」に似ている。
なんだか人生のネガキャンみたいになってしまった。
人生の言葉尻を捉えてばっかりなので、人生そのものについて考えてみる。
生きるって、ギャンブルだ。生まれた家、周りの環境、進路選択。自分で選べるものは余りにも少ないのに、自分が背負う責任は余りにも大きい。
しかも、その数少ない選択肢で最高の択をし続けたとしても、突然の理不尽なイベントで全てチャラになったりする。
私たちは、賽の河原へ行かずとも、今この瞬間も石を積み続けている。
人生ゲームというのは、本当によくできていると思う。回したルーレットの積み重ねで、運良く株が当たって一軒家を買えるやつもいれば、ハプニングにばっかり遭って自己破産するやつもいる。人生ゲームの方がスタートが平等な分マシなくらいだ。
人生ゲームのゴールは、億万長者になることしかない。だから、運良く金があるプレーヤーも貧乏なプレーヤーも、同じレースを走らなきゃならない。
でも、それって理不尽だ。だって、お金が貯まるマスにばっかり止まるやつもいれば、火星人に遭遇したり流れ星を見たり突然ゾウを買うことになるマスにばっかり止まるやつもいる。そんなのどうしたらいいんだ?金にならない夢で両手を埋めてゾウを引き連れ、火星人と過ごした日々を語りながら遠い開拓地へ進むのか。
でも、現実の人生なら、自分でゴールを決められる。
「火星人に会うこと」がゴールなら、上がって億万長者になったやつよりも、「火星人に会う」マスを引き当てたやつのほうがエラい。
石だって、積まずに並べてもいいし、川に流してしまっていい。石を積まなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ?
いい人生ってなんだろうか。生活に苦しまないお金がある。友人がいる。いい職がある。パッと思いつくのはそんなとこだけど、いちばん大切なのは、「自分が納得すること」だと思う。
金、愛、名誉。全部手に入れるなんて無理な話だ。
だから、一番欲しいものをひとつ決めて、それを欲しがる。どっかの誰かが勝手に決めた陽炎みたいな遠い幸福像へ皆で進むのではなく、行きたいマス、行けそうなマスを今の自分で決めたほうが、ずっと楽になる。なんなら、マスをつくってしまったっていい。
じゃあ、火星人に会うのがゴールだとして、そこで人生は終わりなのか?
残念ながらまだ日本に安楽死制度はないので、レールは先へ続いている。
人間が生きている時間というのは、もちろん全てが幸福ではない。
映画や小説の人間たちが綺麗な人生をおくっているのは、祈りなのだ。どうか、こんなことが起きますように。辛いことばかりではありませんように。
でも、現実はそう上手くいかない。いじめられ、大切な人を失い、仕事だって失敗が続く。それでも、もうこれで死んでもいいと思えるような最高の日があったりして、その思い出を糧にしてまたしばらく泥だまりみたいな毎日を歩いていけたりする。
人生はギャンブルだ。またその最高のマスがやってくる可能性は、0%ではない。1%かもしれない。それでも、「起こり得る出来事」だ。
だって、その最高の日は、実際に自分の目の前に現れたのだ。マッチの火の幻想ではなくて。
人生は面倒くさい。でも、ゲームよりは自由だ。
そこんとこ、人生は「自由研究」にも似ている。
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