双子ベビーカーバス乗車の「助けてもらうことを前提に外出するな論」に思うこと
双子ベビーカーだけでなく、車椅子ユーザーなどマイノリティな立場に対して「助けてもらうことを前提に外出するな」と考える方は、「私は誰にも頼っていない、自分の力で生きている」と勘違いしているのでは、と思う節があって気になりました。
現代の社会で1人で生きている人はいませんよね。戸籍を持たず誰にも出会わず仙人のような暮らしで一生が成り立つなら別ですが…
私たちは必ず社会全体で支え合って生きているので、誰かに頼らない状況などあり得ません。だって、私たちは今服を着ています。デザインして、作って、売って、輸送してくださる方がいて、それ以前に、綿を栽培して、糸や布を作ってくださる方もいます。だから、毎日裸じゃありません。服を着ている時点で、かなりの方々のお世話になっています。
必要なお金を支払えるなら1人で生きている事になるかしら?
いえいえ、お金の仕組みを作った方、製造する方、流通させる方、財布やカードを作った方々、これまたたくさんお世話になっています。
というわけで、私たちは、日々誰かのおかげで生きています。
自分自身がなんでも出来て、出来ないことのない完璧な人間なんていないので、それぞれので「出来る」を持ち寄って生活が成り立っていますよね。
出来る立場の人が、出来ない立場の人を支えるのは、社会で一緒に生きている私たちが行う自然な作用だと思うのです。
だから、移動することが難しい立場の人を、移動が容易な立場の人がサポートする関係性は自然ですよね。状況によってはどちらの立場に立つこともあるでしょう。
双子ベビーカーを助けることは、未来の自分を助けることと同じ意味だと思います。遥か未来どころか、明日の自分かもしれません。
車椅子を利用することも、双子を育てることも、想定したり計画したりしたわけじゃないことが多いはずです。もし、何時マイノリティな立場になっても、不利益がなく、当たり前に移動ができる社会の方が、誰にとっても有益ですし、未来のリスクに対する不安も和らぎますよね。
誰かを助けることは、自分を助けること。
「双子ベビーカーや車椅子に出会ったらまず助ける」が”当たり前”にしましょうよ。
もしそれが理由で何かに遅刻した方がいたら、その行いを素晴らしいとリスペクトしつつ、関係者で穴埋めをすることもまた、助け合いの良い連鎖になるんじゃないかしら。
さらに、双子ベビーカーや車椅子がもっとスムーズに移動できるデザインを、乗り物や建物やいろんな場面でみんなで工夫して広げていくことも、みんな=自分を助けること、なんじゃないかなと思うのです。